ぜんぶひっくるめての「等しさ」について
人間、生きていれば自分が「苦手だなあ」と思うことが、たくさん、たくさんある。
たとえばそれはある人にとっては話すことであり、またある人にとっては書くことであり、ある人にとっては本を読むことであり、ある人にとっては朝早く起きることであったりする。
そして自分が苦手なことについて人はしばしばマイナスに考えがちで、できない自分に対して落ち込んだり、「なんであの人はできるのに自分はできないんだろう?」と、周囲と比べてしまったりする。
「できない」「苦手」という言葉に対してはどうしてもマイナスなイメージしか抱くことができず(この、人が言葉に対してデフォルトで抱いてしまう先入観はなんなのだろう?)、そのことが、今日もどこかで人を悩ませている。
でも最近、それってなんだか違うよなあ、と思うことが、私の身の回りでいくつかあった。
1ヶ月ほど前、神保町ブックセンターで行われた「読書の仕方」というテーマのイベントに登壇した。
そこで一緒に登壇していたハピキラファクトリーの正能さんは、しきりと「自分は読書が苦手だ」ということを繰り返す。
正能さんは、自分が読書が苦手だから、自分でも最後まで本を読めるように、読書をエンタメ化して読書会を開いている、ということだった。
池波正太郎の『男の作法』を読むときには、その本の中に書いてある「最高に美味しいすき焼きの食べ方」を実践しながら(葱を立てて食べると美味しいらしい)。志賀直哉の本を読むときには、実際に志賀直哉がその本を執筆したという温泉宿の同じ部屋を予約して。
ものすごく楽しそうに話す正能さんのその読書体験を横で聞いていて、私は「おもしろいな」と思うと同時に少し「悔しいな」と思った。「私のように、息をするように自然と読書ができてしまう人には、この発想はできない」と思ったのだ。
後輩で、ものすごく読みやすい、いい記事を作るライターがいる。
その子が何かのインタビューで、「文章を読むのが苦手だから、どうやったら苦手な私でも楽しんで読める記事を作れるかを考えるんです」と答えていたのを先日見かけた。
自分が文章を読むのが得意な人は、この視点を持つことはなかなかに難しい。「これくらいなら理解されるだろう、伝わるだろう」と、どうしても自分起点で考えてしまうから、だ。
このように、「できない」ことこそに才能を宿らせている人に出会うことが最近はしばしばあって、そのたびに、私は「できないことは能力なんだなあ」というようなことを思うようになった。
世の中は「できる」ことばかりに目を向けがちだけれど、きっと、「できる」ことも「できない」ことも能力であり、その能力に良し悪しはまったくないんだなあ、ということを思う。
人には「できる」方向性の能力と「できない」方向性の能力がただただ存在するだけで、数式でいうところの「-3」と「+3」の強度が同じように、それが自分の人生に与える影響の強さには、ほんの少しだって代わりはない。それはきっと、向いている方向の違いであるだけなのだ。
「マイナス」が悪いことだなんて、誰が決めたのだろう、と、最近はしばしば考えている。生きる世界は「強度」の問題でしかなく、その方向が斜め上を向いていたって、斜め下を向いていたって、ぜんぶひっくるめて「等しい」のだ、と思う日曜日の夜なのです。髪の毛を切ったよ。