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「祈り」によって形作られている

いきなり惚気からはじまって大変恐縮なのだけれど、私の旦那は、とてもやさしい。

人の悪口なんてめったに言わないし、何なら愚痴のようなものも、ほとんどこぼさない。

「嫌いな人とか、いないの?」

ある日、あまりにも不思議に思って、そんなことを彼に聞いたことがある。すると旦那は、「人のことを、嫌いになりたくないんだよね」と、言葉を続けた。

もう少し話を聞いてみると、彼は、自分が弱いということを、ものすごく自分自身で理解しているのだった。

放っておいたら誰かを嫌いになってしまう可能性がある、放っておいたら愚痴をこぼしてしまう可能性がある。そんな自分になるのが嫌だから、どうやったら「そういう自分でいなくて済むのか」を考えて行動しているのだ、と彼は言う。

その話を聞いたとき、「やさしい」という彼の性格は、彼の「やさしくありたい」という「祈り」によって形作られているものなのだ、と思った。

考えてみれば、私がnoteに書いている文章たちも、祈りのようなものだ。

私のことをよく知る知人は、私のnoteを読んで、「あかしはそんな綺麗な人間じゃないやん」と言ってくる。

たしかにそれは本当にその通りで、私は心から思ったことをこの場所に書いている、そのことに嘘偽りはないけれど、実態が伴っていないこと、それもまた事実なのである。

こうありたいな、こうなったらいいな。そんな祈りのようなものを、言葉にしたためる、それが私にとってnoteという場所でする表現なんだなあ、と思う。

そう考えたとき、人が生み出す表現というものは、それが文章であれ、写真であれ、音楽であれ、何であれ、きっと「生き様」と「祈り」を足して2で割ったようなものなのかもしれない、と思った。

表現だけでなく、行動だってそう。「本当の性格」と「理想」によって、人の行動は、形作られているのではないだろうか。

祈りによって動く人はうつくしいな、と私は思う。理想と現実のギャップにもがきながらも、理想の自分に近づきたくて、そうあろうと努力した結果生まれる姿。祈りがあるかないか、その祈りを大切にして行動しているかどうか。そのことは、生きていく上ですごく大切なことだと、そんなことを思うのです。

私も「こんな自分でありたい」という祈りを忘れずに、日々生きていたいと思う、そんな土曜日の夜なのでした。これもまた祈りだね。

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。