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あの味を、もう一度

 シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタム 10500円

 その一行を目にして、紫サリィが目を細めた。20年前、フロバンスのナメクジというレストランで食べたっきりで、驚きの味だった。しかし翌年にナメクジの廃業と共に、消えたと思われたシュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタムが、まさか東洋の祖国で再びまみえるとは。サリィは手を翳すと、後ろに控えていたオーナーの井伏は動いた。

「ご注文は決まりましたでしょうか」
「はい、まずシュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタムをください」
「……恐れ入りますが、それを作るには今日の食材が一つ欠けていまして、別の……」
「あら?作れないというのですか?こんな大事の日だというのに?」サリィがテーブルの上に十指を交叉し台型に組んだ。「星、取っちゃうか?」
「いいえ!言い間違えました!問題ありません!すぐご用意します!」

 井伏は一礼し、早歩きでキッチンに入った。

「やばい……やばいぞ!」
「よぉオーナー!ミシュランの審査員が何を注文した?コンフィ、フォアグラステーキ、ロブスター、全部任せんしゃい!」

 ずんぐりした体型の男、シェフの馬場が包丁に研ぎ棒を滑らせながら言った。

「あれだよ!名前が長い奴!よりによって!」
「なんじゃと?あの年間五回も注文されない、アレが?」
「単品で10500も要るアレだよ!クソッ。何てことしてくれたんだ平田のやつ……」

 平田とは、この”うみうし”をミシュラン一つ星認定店に導いた総監督シェフ。シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタムをメニューに入れるのも彼の拘りだった。

「馬場、お前は平田の料理全部コピーできただろ?何とかならんか?」
「や、アレの作り方は平田さんしか知らん」馬場は顎を撫でた。「珍しく注文が来ると、オフィスの方に行って、完成して自分で直接テーブルに運ぶらしい。キッチン中じゃ誰も調理過程見たことない」
「そうなのか……おのれ平田ぁ、ミシュラン審査の前日にオイスター爆食いなどしやがって!」

 その平田シェフがオイスターで当たってしまい、トイレから寸歩離れない状態に陥った。

「だめだ、二つ星昇進ところか、星が取られてしまう……」
「シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタムなら、作り方知ってますよ」とデザートシェフ、茉莉花が言った。
「それは本当か!?なら早速作ってもら」
「私、デザート以外は作らないんで、契約書に書いてありますね?」

 茉莉花は億人に一人の味覚絶対記憶の持ち主で、どんな料理でも一度食べると再現できる天才だが、デザート以外を作ることを頑なに拒否している。

「そうだった。じゃ教えだけでいいから!馬場に作らせる!」
「よっしゃ!平田の料理全部盗んでやるぜ!」

 希望の光が見えた井伏と馬場はやる気になった。茉莉花が述べたレシピに調理が進んだ。出来上がったのはレタス、セサミリーフ、ヒナギク、キュウリ、パプリカ、焼きナス、蘭の花を使ったカラフルなサラダだった。

「ワインビネガーとオリーブオイルを振ってください」
「今の所ただのサラダにしか見えないが」
「サラートとはサラダのことだもの。ここからが最重要ポイントです。馬場さん」
「おう」
「マスターベーションして、サラダに精液をかけてください」
「え?」

 馬場と井伏は訝しんで、口が大きく開いた。

「茉莉花、今は皆にとって大事な時だ、冗談言ってる場合じゃ」
「断じて冗談ではありません。私は見たんです。オフィスの中、サラダに向かって生殖器を扱く平田さんを。彼は『あっ、見られちゃったか』と恥ずかしそうに言って、精液をぶちまけました」

 馬場と井伏の口はさらに大きく開いた。

「『ヨーグルタムは男の乳、つまり精液を意味する。この薬味が風味を何倍も増幅させる』と言った。お客さんは料理に満足しましたと」

「わかった」馬場は覚悟決めた顔で言った。「やりゃいいっしょ!」

 彼はスマホとサラダを持って、オフィスに行った。

 8分後。井伏はやつれた表情でキッチンに戻った。

「オーナー……」
「馬場、お客様がシェフに会いたいと」
「はい……」

 心の中で平田を呪いながら、馬場はコック帽を両手に胸の前に持つという謝罪の姿勢でキッチンを出た。しかしVIP席に座っている中年女性は悪態ところか、微笑みで馬場を迎えた。

「久しぶりね、ばばくん。私のこと、覚えているかしら」
「はっ」馬場は息を呑んだ、目の前にいる女を、彼は知っている!「まさか、ムラッチ!?」
「やはりあなたね。濃厚でちょっびり辛い。すぐわかったわ」

 何たる運命か、馬場とサリィは高校時代の恋人で、熾烈なロマンスを謳っていた。二人はその晩、青春の再点火のように愛し合った。

 でもサリィは仕事に手を一切抜かなかったため、料理に精液は混ざったことが公表され、店は一ヶ月後に潰れたとさ。

(終わり 本文1961文字)

この作品はお詫びと、友好のしるしです。





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