平成プロレス30年史 平成元年(1989年)

時代は平成から令和に移ったが日本のプロレスは幾度かの危機を乗り越えますます盛んだ。
ここで平成時代のプロレスについて歴史を紐解いてみたいと思う。
平成元年はプロレス界が大きく変革した年だった。
馬場・猪木時代の終焉と東京ドーム大会の開催、三冠統一王者の完全決着ルールの採用である。

平成元年はまた多団体時代の幕開けでもあった。
前年に出現した新生UWFが時代の寵児となり、パイオニア戦士とFMWが旗揚げ2団体独占単独エースの時代は去り価値観は多様化していった。
東スポのプロレス大賞はMVPが前田、ベストバウトは鶴龍対決。
新年号と共に動き始めたプロレス界を振り返っていく。

2月22日 新日本プロレス
両国国技館でアントニオ猪木が長州力のリキラリアット6連発にフォール負け。
新日本プロレス設立後のアントニオ猪木が日本人相手にフォール負けを喫するのは、88年7月に札幌で長州に延髄ラリアットからのフォール負けに続く2度目の出来事であった。

4月18日 全日本プロレス
大田区体育館でインター王者のジャンボ鶴田とUN・PWF王者のスタン・ハンセンの間で三冠統一戦が行われジャンボ鶴田が史上初めて三冠王座を統一。
全日本プロレスはNWA世界王座に一番の価値を置く時代から三冠ヘビー級タイトルを唯一無二の看板タイトルにする時代となった。

4月24日 新日本プロレス
プロレス界初の東京ドーム大会が開かれた。
当日は53,600人の大観衆を集め、翌年から定例化することとなった。
試合はソ連アマレス軍団のデビューをメインに行われ、猪木は柔道金メダリストショータ・チョチョシビリにKO負け。
サルマン・ハシミコフがビガロ戦でデビュー。

東京ドーム大会では獣神ライガーがデビュー。
難敵・小林邦昭に快勝した。
ライガーはイギリス遠征から帰国した11日山田恵一が変身することがアナウンスされ正体を明かしてのデビューであった。
藤原喜明に鍛えられた若手の実力者山田恵一は「リバプールの風になった」のだ。

5月4日 UWF
大阪球場で21年ぶりに開催された新生UWFのプロレス興行は23,000人を集め大成功を収めた。
この年鈴木、船木、藤原を獲得したUWFは大阪球場、NKホール、横浜アリーナを軒並み満員にし、11月には東京ドームに進出。
旗揚げ2年目で新日本、全日本の2大老舗団体を脅かす存在になっていった。

6月5日 全日本プロレス
日本武道館 鶴田との三冠戦に垂直落下パワーボムで敗れた天龍だが2度目の挑戦で雪辱。2代目王者に。
首の痛みが癒えていない天龍は序盤から鶴田の猛攻に苦しむもパワーボムで逆転勝ち。この年のベストバウト。

6月16日 アントニオ猪木が参院選出馬に伴い新日本プロレスの社長を辞任。
坂口征二の社長就任が決定。
8月18日には坂口社長の申し出で馬場社長と会談。
新日本&全日本の歴史的巨頭会談が実現。

闘魂三銃士はグレート・ムタがジョージア州アトランタで9月3日スティングを破りNWA世界TV.王者に。
9月20日 大阪城ホールでマサ&橋本が長州&飯塚を破りIWGPタッグチャンピオンに。
10月13日には蝶野が凱旋帰国。僅か2分39秒で反則負け。

10月6日 FMW 名古屋露橋スポーツセンター
FMW旗揚げ。
大仁田が青柳館長との異種格闘技戦に敗れる。
大仁田は手元に5万円しかなくて電話を引いて団体を作ったと言われた。
後のスペル・デルフィンや邪道・外道のタケシ・プロレス軍団の若手はこの日デビュー。

11月29日 全日本プロレス 札幌中島体育センター
天龍が馬場にタッグながら歴史的ピンフォール勝ち。
最強タッグ決定リーグ戦の公式戦で龍艦砲VS馬場・木村戦。
天龍は「UWFはドームで何億という興行をやって、俺たちは雪の中をバスに乗って。これも人生だなあと思った」と語った。


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