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普通のことをちゃんとやる

凡事徹底。

僕はこの言葉をないがしろにして生きてきた気がします。

普通のことをちゃんとやる。

僕はこの言葉をこのようにとらえているのですが、それがなかなか難しい……。

ビジネスの世界でもスポーツの世界でも、多くの成功者と呼ばれる人たちが「凡事徹底」を座右の銘にしたと聞きます。松下幸之助さんしかり、イチローさんしかり。

それはどうしてか。

彼らのような大きなことを成し遂げる人は「当たり前のこと」ではなく、人とは違う「特殊なこと」をしたように思えますが、実際に見ていると、確かに「特殊なこと」「奇抜なこと」をしているのではなく、「当たり前のこと」をしっかりと着実に、長期にわたってやり遂げた人が多い気がします。

僕の大好きな物書きで、立命館アジア太平洋大学(APU)学長も務めていらっしゃる出口治明さんも「人生ちょぼちょぼ主義」という言い方で「そんなに人の能力自体は変わらない。結局はやるかやらないかだ」という趣旨のことを言っていました。凡事でも徹底することで大きな実りがあるというのは事実のようです。

僕にとっては大変勇気づけられる言葉でもあります。なにせ「普通のこと」を徹底してやり続けることができれば、何かを成し遂げられるんですから。それなら、なんとなく自分にもできるんじゃあないだろうかと思っちゃいます。なにせ、「やればいい」だけなのですからね。しかし…物事はそううまくはいきません……。それができないから、一部の成功者と多くの凡人とに分かれるんでしょうね。

「普通のことをちゃんとやる」というのは、実はとても難しい。そして、それを続けることはさらに難しい……。振り返ってみれば、僕も、やればいいだけのことをできなかったことがどれだけ多いことか。文章を書くことを習慣化したいと言って始めた「note、毎日執筆」もしかり。(この記事も深夜0時を回ってしまい、日付けが変わって連続が途切れてしまったw。僕の集中力も途切れてしまったw。)

ではどうして「普通のことをちゃんとやる」ことができないのでしょうか。

理由の一つは、人間は慣れてしまうと横着になって、ずぼらになるからではないでしょうか。会社に入りたてのとき、新しい仕事に就くときなどは、緊張して、一つ一つミスがないように、それこそ「凡事徹底」の精神で丁寧に物事を進めます。しかし、慣れてきて自信がついてくると「これまでもできていたのだから、適当にやっても今回もできるだろう」という気分になってくる。それで確認を怠ったり、何かの工程を飛ばしたりしてしまう。そうして出来上がったものは形だけはできていても、雑でクオリティーの低いものになってしまう。

もう一つの理由は、人間の持つ好奇心からくるもの。人間は同じことをずっと続けると、だんだんと飽きてくる。そうすると「凡事」ではなく、「特殊なこと」を試してみたくなる。王道をしっかり歩くのではなく、「何かショートカットがないだろうか」と探しちゃう。

もちろん、そうすることで改善や発明が生まれることもあるから、好奇心自体に問題があるわけではないでしょう。でも「凡事」をやめてしまうことには問題がある。言い換えれば、人が何かの能力を身に付けるためには同じことを繰り返し続けて、無意識でもできるぐらいに習慣化することが必要だ、ということです。

何かをしていて「飽きがくる」ということは、まだ意識的に仕事をしている証拠だと思います。その能力は身に付いていないはず。語学でも自転車に乗ることでもビジネススキルでも、能力は一度身に付く(無意識でも、できるようになる)と維持しやすいのですが、身に付かないうちに練習をやめてしまうと、また徐々にゼロの段階に戻ってしまいます。

もし、何かが無意識でもできるようになれば、意識を使わないのでまず「飽きる」ということが起こらない。無意識でやっていることは苦にならないから。むしろ、何も考えなくていいわけですから、身に付いたルーティンは快適さをもたらすはず。

つまり、「凡事徹底」を僕を含めて多くの人ができないのは根底に「飽きるまでやってみよう」という考えがあるからなんだと思います。本当は「快適になるまでやる」ことが必要なんだと思います。

すごい人はルーティンワークを厭わない。何かをするときは、努力しなくても自然に「凡事徹底=普通のことをちゃんとやる」ができるように、継続していくことが大切なんじゃあないでしょうか。

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