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【短編小説】蒸留

割引あり




 社内ホームページのど真ん中、掲示板のトップを飾る「社員家族死亡通知」をクリックすると、知らない社員の「ご尊父」が「ご逝去」されたと記されている。「通夜」と「葬儀」は「既に執り行われ」たらしい。か細くてどこからでも千切れそうな明朝体の文字列が、不安定な禁忌の匂いを漂わせている。その社員のことを知らないのだから「ご尊父」も当然のように知らない人間だと思う。もしかすると、そのお爺さんに近所の行きつけのスーパーですれ違ったことがあるかもしれず、その時に何か声をかけられたかもしれず、そうであれば顔を見たら何かを思い出すかもしれないが、燃え尽きた顔を見る機会はもうないに違いない。それが悲しくなく、そもそも死んだこと自体も大して悲しくない。その社員が知り合いなら少しは辛かったかもしれないが、そうであったとしてもほんの少しの辛さでしかない。ただ確かに私の五感の届かないところでも、誰かが生きて、死んでいる。
 実際はそんなことを一切考えていない私が、サイズの合っていない小さなラテックス手袋を被せた手で実験台を拭いている。無駄に細長い指はぱつぱつに引っ張られていて、淡黄色のゴムの中で今にも脱皮しそうにもぞもぞ蠢く。実験台にこびり付いている水飴のように透き通った汚れは恐らく誰かがこぼしてしまったポリマーで、水を含ませたキムワイプで擦ってもなかなか落ちない。もうパソコンの画面上に「社員家族死亡通知」は開かれていない。隅までびっしりと赤のボールド体で注意点が記入された作業書のワードファイルを見ながら、蒸留を進める。

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