神童みたいな桃のこと

 ありえないほど硬い、桃を食べた。え、これ、桃か? と疑うくらいの桃だった。

 父が美味しい桃があるよ、と言って、2つパックに詰められた桃をお昼ごろ、持ってきた。もう昼ごはんを済ませていたので、これは夜に食べようか、ということになった。別に桃など珍しくなかった。この前も食べたくらいだ。お盆になると、祖母が大量のフルーツを買ってきて、その消費に悩む。日を置いてしまって、カビが生えて、残念ながら捨ててしまうものも多い。残念ながら。けれど、「美味しい桃」と呼ばれる桃を見たのは初めてだった。淡くピンクに染まった表面は、本当に可愛らしく、なんとなく、私が溺愛している妹みたいだ、と思った。冬の日に、頬を真っ赤にして犬の散歩から帰ってくる妹を思い出す。


 私がお風呂から戻ってくると、もう桃のうち1つは皮を剥かれてる最中だった。包丁の先で、くるくるとピンク色が回る。花びらみたいだ。桜の花びらをたくさん集めて、溶かして固めたらこんな風になるかしら。けれど、桜みたいなたおやかさは、ない。あ、なんか、硬そう。このときからそんな予感はしていた。それでも、「美味しい桃」と呼ばれるのなら美味しいのだろう。私はおかしなくらいに、桃に期待してしまっていた。
 もらい、と言いながら妹が1つつまむ。母はまだ切っている最中だったのに。少し緑色が見えるようで見えないような、そんな黄色の切れ端の真ん中が、妹の頬みたいに染まっている。染まっている中でも色は違っていて、外側はそれこそ桜の花弁の、端みたいな薄紅、だけれど、内側に向かって濃い色になっている。ダイソーのマークみたいだと、あまり詩的ではないような比喩が思い浮かんだ。とたん、ぎい、と妹の顔が軽く歪む。かたあい。そう、桃は硬かった。まだ早いのだ。私は、もはや「美味しい桃」ではなく「硬い桃」になってしまったそれを、ゆっくり口に含んだ。確かに硬い。硬すぎる。けれど、味は確かなのだ。美味しい桃と呼ばれるだけのことはあるな、と思った。噛んでいると硬さはちょうどよくなっていく。その果肉感。果肉感という言葉、グミやゼリーに使うべきで、果肉そのものに使うべきではないな、と反省した。神童、みたいな桃だ。


 もう1つの桃の方は、柔らかくなるのを待つことになった。大人になってテレビに映らなくなる子役みたいにならなければいいな、となんとなく考える。それほど、そういう子役を知っているわけではないけれど。オワコンっていうやつだ、と今思い直した。オワコンの桃。になる前に、私の体内に入ってしまえばいい。
 自分がオワコンになっていくような気がしている。晴れて大学生になれたはいいものの、何もできないままだ。なんなら、部活をしていた高校生のときの方が、勢いがあってよかったな、とも。全盛期が高校生という、悲しいものになりたくない。だから、せめてもの抵抗として、何かを書いている。1年後にこれを見て、稚拙な文章だと思って、もう少し立派に書き直せたらいいな、と思う。桃にはそういうことができないから、私は人間でよかったなあと思うこともある。私が食べた桃は、今どこにいるのだろう。そろそろ桃の形を失っただろうか。私は桃ではないし、誰かに食べられることも、たぶん、ないから、人間の形を保っていたい。人間の形を保つには、書くしかない、気がする。


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