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いとうひでみとSHISHAMOの似てなさと女子

いとうひでみはイラストレーター。

絵描きとか漫画家とかよりも素直にストレートにイラストレーターという肩書が似合う。彼女の絵はシンプルな、女の子を描いたパステルで単色の一本槍だ。でもその槍は強い。

熊ぐらいなら、一撃でヤれる。

いとうひでみは、ちょっと前に東京スカパラダイスオーケストラのCDジャケットを展開していた。ほんのりスカパラファンであった僕はへーと思ったのであった。

スカパラメンバーと思しきパステルなイラストがのっぺりとCDの全面を覆っていて、なんというか「ぜつみょう」にダサかった。でもそのダサい感じが、それまでの、ひたすらカッコよく見せようとしていたスカパラのとっつきにくさを引き剥がしたような感じがした。

なかなか、一皮むけたなって思わせた。

スカは陽気な音楽だ。陽気なだけで他の余計な何かはいらない。音楽における明るい陽気さは、ほかのあらゆる芸術が持ち得ない意味不明さがあって、いとうひでみの絵はそんな意味不明さの意味不明なところをがっちり捉えていた。

意味からは理解できない。そこにはのっぺりがある。

で、ひょんなことからいとうひでみの個展に行った。以前原宿の小さなギャラリーで行われていた展示に、そのスカパラのジャケットを見に行ったおりに「○○さんでは?」と聞かれてびっくりした。以前、小さなパーティーでご一緒していたのを覚えていてくださったのだ。

ところがそのスカパラの絵は飾っていなかった。それどころか、彼女がドローイング的に描いたものではなかったのだった。詳細は省くがぼくはひどく落ち込み、代わりに「パンツ丸出しでUFOを召喚する少女たち」という、いとうひでみが最近こだわっているパンツ少女のシリーズを延々と見た。

ネットで見た時のような感激はすくなく、むしろ絵の具単体の味気なさがぽんっと置かれていたことに、ふしぎな感じがした。

ネットで大騒ぎされているものが、現実にみるとどうしようもないものだったというオチを数え切れないほど経験してきた身として、逆にネットでみる絵のほうが興奮とか淫靡さを誘うのに、実物はむしろ淡々パンツを描いた絵だったという衝撃はうまく伝えられない。

本来であれば、失望に値するだろう。

でもむしろ、絵をみて僕はそのたんたんとした音調にひどく感激し、その落ち着きとパンツ丸見えのUFO超能力少女たちの何を考えているのかわからない感じに安心感を覚えていた。

この無感動さへの感動は、周りにきていた女子たちの観客とは異なる感想に属していたことが、漏れ聞こえる会話から理解できた。

いとうひでみはすごい。

男性は普通パンツに興奮する、ように描いてしまう。ただ単にパンツがある、という日常性への理解は理性と常識の抑制を超えてしまう。

そこに行かないまま、無意味にめくれ上がったスカートを描くことや、それに恥を感じていることを描くというのはどういう絶望や精神を乗り越えたらできるのか理解できない。

自然さだ。

自然に、フィジカルである。

シシャモを食べることは許されない。

SHISHAMOというバンドがいる。「キミと夏フェス」とかで、人気がある。今SHISHAMOがスキ、と女子にいったら、即座に「死ね」と言われた。女子に触れてほしくない「胸キュン(公式HPによる)」を、三十を超えたオッサンがのうのうと語った\語りそうなことに対する不快感というのは僕の想像を絶するのかもしれなかった。


SHISHAMOの歌はあざといが自然だと思う。突然で理解しがたいフレーズもあるけれど、inouとか、まあなんでもいいけど男性的な高揚感、ドラッグライクな中毒的音韻への憧憬とかじゃなくて、人の心の唐突さとか欲望に近い部分の心の柔らかさ(会社やすみたいとか)をすべてSHISHAMOは語っていると思う。

むかし、シンクロ少女という劇団について、Mrs.フィクションズというこれまた劇団のどなたかが「男性の劇作家、女性の劇作家」という区分をした上で、誤解を招くかもって前置きしてからこう評したことがある。

「女性の劇作家って、突然で非論理的なんだけど、すごい説得力があるんですよ」。

シンクロ少女の舞台は短いのを見たことがあった。それは美女の秘書が、弟子の男に寝取られている作家の話で、その作家はNTRを告白されたさい、せいぜい美女は隣室でやっていたのだろうと信じ込んでいるいたのに、余裕たっぷりの美女に先生の枕元でセックスをしていたと言われ、作家はウィーアーザチャンピオンを聞きながら全裸になって号泣しながらガッツポーズをキめる、というもので、これを読む限り何をしているかわからないと思うけど、見ていてもなんだか分からなかった。でもまあ、なんかわかった。

こういう「わからないけれどわかる、わかりみ」、すなわち女性的な感性はジェンダーとかロールといった枠組みでは妙に当てはまらないところがある。他人の考えていることはよく分からないが、やってることはわかる、みたいな感じだろうか。

いとうひでみの絵に出てくる女の子は女子校の学生の服装をしていて強烈なジェンダー規範を身に着けているように見えるけれど、それとUFOもエイリアンも超能力も全部無関係だし、SHISHAMOの歌詞に数え切れないほどでてくるキミは、もうそんなにスキならさっさとセックスしろよって思うし、シンクロ少女も弟子に対して優越感をしめしたいならふたりとも首にしろよって思うけど、そんな合理的な解決を全部拒否して、しかも問題発生から解決まで「男」が影も形もでてこないのは普通にいって、ちょっと前の「女流」たちの格闘のあとを全然継いでなくてすごい。それこそ「女流」特別枠に押し込められた少数派が絶許精神で戦ってきたさきの理想だからだ。

結婚するやつみんな嫌い

最近、まわりはみんな結婚してしまった。結婚をすると、みな女子である、に加えて妻になり嫁になり、ついでにママになり仕事場における「○○さん」であるといった多元的な自己を維持するためにあれやこれやと忙しくなり、僕のような人とかまって遊ぶ精神性を失うし、ぼくもまた「結婚」という言葉の前にウッとなるので人の妻には近づかぬように心掛けている。

でもそうなると、今度は肩書きとか仕事のほうが人間より重たくなってしまう。

女性は男性との社会機能分化を必死でなんとかしようとするらしく、思春期とかナンパ期とかモテ期とか、あの頃にあったわけのわからない他人に対する憧れみたいなものが根こそぎ消えて、ただ意味不明になるか、それとも論理的な人間的解決以外を望まなくなるのかなぁと寂しくおもったりした。

このあと話しはジェンダー規範が異性性との差分によって構成されていきそうした規範をフックにした創作は論理的な有意を持つようになり、それが作品を、作品だけではなくコンセプトやカラーを色付けることを語ろうと思っていた。そういうところの色がないと生きていないみたいだ、と書こうとした。そういうのからいとうひでみのイラストは遠い距離にあるって話をしようとしたが、そんな批評めいたことを書きたいんじゃなくて、本当はただたんに「誕生日おめでとうございます」って言いたいだけだったのだった。

おやすみなさい。

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画像は関係ないステーキだ。ステーキは欲望に近いところにある。

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