下北沢で服を買えなかった。
下北沢B&Bに行った。
ROOMIEというウェブサイトが、オフラインイベントをやるというので聞きに行ったのだ。イベントはけっこう面白かった。町おこし関係の仕事に少しだけ携わっていた頃、「人をよびたい地方の人」の話はけっこうきいたけれど、これから何かをする人の話は、新鮮な感動とノマド特有の軽さ(それはたぶん現地の人たちが移住者にもつ期待とは異なるものだろう)を軽やかに聞いた。
今日書こうと思ったのはその話ではない。
下北沢で服を買えなかった話だ。
僕は下北沢に対してやや特別な愛着があった。かつては十字に立体交差する線路があって、ごみごみした建物が並ぶ猥雑で華やかな駅前の飲み屋街があった。今はコンビニしか入らない駅前のビルにもおしゃれな洋服店がちゃんと入っていて、いつか着たいなと思う服がたくさんあった。古着屋で何着かかったり、ユニセックスの面白い洋服を売るお店があった。
今日、ふと入った古着屋で自分の姿を姿見で見てしまい、いままでそう思わなかったのに「醜い」と思ってしまった。醜い。そこには齢30を越えた惨めな無職が映っていた。その鏡には10代の、学校帰りの少年が後ろに映り込んでいた。
服が買えなくなって久しい。
いろいろあってから、自分を着飾ることをしなくなってしまったし、よい服装を着たいという欲望もなくなってしまった。
欲望がなくなってしまった。
欲望がなくなるということは、自分自身に対する期待もなくなったということだった。この服がかわいいとか、こういうかっこうがしたいとか、そういう欲求は人の自信を左右する。そうした自信をなくしてしまったとして、いったいそれは果たして人の形を保ってはいない。
服を買う事のハードルは人によってかなり高さが異なる。僕はかつて比較的ハードルが低いタイプの人間だった。可愛らしい服をかい、中にはまったく着なかったものもあった。
だが、いまはどうやって買っていたのか、忘れてしまった。
服を買うとき、多くはそばに誰かがいた気がする。それは友人だったり、特別な関係だったりしたけれど、一人で自分の服を買うということはあまりしなかった。いまそれができないのは、隣にだれもいないから、なのかもしれなかった。
でもこれからは服を買うことはないだろうと思う。下北沢もまた資本主義の洪水に押し流されてコンビニと量販店とキレイな飲み屋に変わり、漂白されていくのにつれて、人が人と交わりながら何かを買うという営為はもはや馬鹿げたハイコストな道楽に過ぎない。
そして、一度失った人はもう帰ってこないのだった。そして帰ってきてZOZOTOWNとユニクロをみた。どちらも安くて、快適そうだけれど、寂しさを埋めることも、自分の欲望を満たすこともできなかった。
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