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コンテンツとその政治利用

『文学とアルケミスト』と小林多喜二

『文豪とアルケミスト』が少々燃えているっぽい。

ネットでちょっとみた感じ、ことの発端は2ちゃんの雑談スレでの小林多喜二が新聞赤旗に取り上げられた事が政治利用だ云々というレスだったようだ。

文豪とアルケミストと小林多喜二と日本共産党 - Togetterまとめ

といったことは、ohnosakikoさんの「近代文学が終わった後の『文豪とアルケミスト』」というブログで知った。

 この手の話を聞く度に頭を抱えたくなる人達には二種類いる。一種類目は「本当の小林多喜二を知らない人が自分が嫌いな部分を見たくないばかりにいろいろゆがめている」という派。もう片方は「私たちはゲームを楽しんでいるだけで、政治とかどうとかどうでもいいのに絡まないで」派だろう。現状観測範囲では前者の吹き上がりが激しいようで、後者はいろんな意味でうんざりして黙っているんじゃないかなと推察する。

 僕もふと前者的な立場に立ちたくはなる。今回はたかだか文学者で話がすんでいるからいいけれど、たとえば『文アル』が宗教を元ネタにしたゲームで、「SSR予言者」とかが出てきて、そのキャラ設定やらなんやらで問題が発生して云々とかなったら目も当てられない大惨事になっていたかもしれない。

 いちおう書いておくと、そもそも多喜二は共産党員である。そのせいで晩年はひどい拷問を受けて志半ばで亡くなった。その意味でも、あるいはもっと単純に『文アル』は「文学が好きになるゲーム」を一応標榜しているのだから、多喜二の実装をきっかけに多喜二を好きになったユーザーがその文学的本質である共産主義に目覚めてくれることはDMMとしても極めて本望なことであろう。

 でも僕は後者の立場も理解はできる。『文アル』に現在実装されているキャラクターたちの実際の作品を片端から読むことは不可能だろうし、おそらく『文アル』も実際の作品に触れていくことなんてまるで望んではいないように見える。まあ、このあたりは別によい。ゲーム的な不満はいろいろあるが、それもちょっと別の話だ。

 作家がこのような形でキャラクタライズされる現象は、「近代文学の終り」や『ポストモダン」を待つまでもなく、割と人類史的に当たり前の現象だ。『源氏物語』を書いたとされる紫式部だって、中世には「愚鈍なバカ女が石山寺に参籠したら光源氏が現れてこの物語を授けてくれた」というクソみたいな伝説が普通に流通していた。この精神性は「源氏物語 千年の謎」という2011年の映画にも継承されている。まあ、こんな話が千年も伝わったわけがないから、これも「源氏物語 六百年ぐらいの謎」としてくれていたら僕も大変面白くみれただろう。

 とはいえ、紫式部問題と今回の多喜二問題のそれはかなり異なる。キャラクターに対する向き合い方の違いだ。

 文豪が出てきてフィクションが作られるという物語は近世期から山のように作られてきたけれど、現代ではそれ以前にはないぐらいに「元ネタ」へのアクセスが強く求められているように感じられる。今回の「もっと多喜二を知ってよ」派の怒りは、多喜二で共産党で政治利用云々でなければ問題にならなかったにせよ、元ネタへの強いアクセスを求めている点では変らない。もちろんそれは「小林多喜二」という人の名前を借りている以上不当な非難ではないけれど、吸血鬼と戦う大統領がいたり、ガトリングをぶっぱなす信長がいたりするんだから別にどうでもいいと言えばどうでもいい気はする。

政治利用

 もう一つは「政治利用」という言葉の難しさだ。「政治」に対して、人は普通二つの相反するイメージをもつ。一つはA「権力闘争」としての政治だ。多喜二はこれを求めて死んだし、いまでも激しい政府批判を繰り広げる人達の多くはこちらの「政治」を信奉している。それと対をなすのがB「秩序の維持」としての政治観だ。権力闘争だけではもちろん政治はなり立たない。日常や生活をコントロールして適切な秩序を運営する調整こそが政治だという見方である。

 いま仮にAとBとしたけれど、「多喜二を政治利用するな」と言った人のそもそもの政治観はBのはずだ。それがAとして利用されていることに憤りを隠せないということだろう。逆に「多喜二を勘違いするな」という人の政治観はAである。権力闘争の場では、すべてのアイコンに政治が(ちょこっとだけにせよ)含まれている。『文アル』に文学者が登場し、そこでどういう振舞をさせられているのか、ということ自体がそもそも政治的な問題だ、ぐらい思っていることだろう(これは実際そうだと思う。文学者なんてひとまとめにできる集団は本質的にはいないんだから)。AとBの間にはかなり複雑なグラデーションがあるのだけれど、乱暴にまとめればこんな感じだろう。

 けれども、多喜二を政治利用しないでほしい、ただただ楽しいゲームをしているだけの場に共産党とか、政治とか、いろいろ持ち込まないでほしいという人達の気持ちもわからなくはない。コンテンツというのは本質的にBの上になりたつ物であり、そういう環境下ではコンテンツを楽しむことと元ネタを知ることとは全く接触するべき事柄ではないからだ。

 でも、こんかい小林多喜二での吹き上がりは、僕にとってとても興味深くて、大事な話だと思っている。たとえば以前、新しいゲームを発表するといってユニセフが毎日子供達が死んでいることをプレゼンしたという案件があったけれど、こういうのが実に不誠実に見えるのはなぜか、みたいなこととも繋がるだろう。

長くなったので、このあたりで今日はやめ。

 

 

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