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ごちうさジェネリックとしてのLAIDBACKERS-レイドバッカーズ-摂取のススメ

日本国が世界史上に存在する唯一の理由といってもいいTVアニメ『ご注文はうさぎですか??』が終了して以来、木組みの街でしとやかに行われる女子達の楽しげな日常のために人間性を失い狂気に堕ちた人々を指して「ごちうさ難民」と呼ぶ。

ごちうさ難民の治療には一定の質が担保された「きゃっきゃうふふ」が必要であることはWHOの調査でも明白であり、難治の壁を押してリハビリに励む人々も多い。ごちうさ禁断症状で死亡した患者が現れるたびに遺族がごちうさの続編を望む声がやみからやみへと伝えられており、その祈りが通じて第三期がはじまることになった。それに先だって種々のキャンペーンが繰り広げられている。

重篤なごちうさ難民の治療には大規模な手術やロボトミーが有効であるが、もう少し簡単な治療方としては『スロウスタート』の視聴が挙げられる。ごちうさの監督である橋本裕之がふたたび監督を手がけた、女子高生がきゃっきゃうふふする話だが、主人公格の花名は中学浪人をしており心に深い傷を負っていて、同じアパートにすむ万年は大学受験に失敗して引きこもりになってしまったという重たい話なのだ。社会が悪い。世界は残酷だ。そして革命の炎は消化剤で消されてしまう。それでもOPの「ne!ne!ne!」はいい曲だと思う。

そして『スロウスタート』も効かない末期症状になったものは、本橋氏の監督作品を求めてたどり着くのが『LAIDBACKERS』を見ることになる。一時間ほどの劇場公開作品で、2019年4月の公開。文字通り「平成最後の」映画になった。

ムカシユウシャ、イマ、ニート。ダケドトキドキ、ホンキダス

逆異世界転生もので原作もの。戦争まみれの異世界からやってきた魔王と姫騎士ご一行が京都の駄菓子屋(おばけ屋)で居候しながらぐうたらとした日常を過ごすという話だが、途中から途中までをブツ切りにしたような展開で魅力的なキャラがきゃっきゃうふふするだけで、すごい盛り上がりも、すさまじい展開もなく、終わってしまう。そして音楽がめっちゃいい。

なにもかもがちぐはぐな作品で魅力とか売りとかストーリーとか伝えるのが難しい。姫騎士のワンちゃんが可愛い。魔王の幼女はよくわからない。

本橋監督作品のなかで「きゃっきゃうふふ」は特別な意味をもつ。「きゃっきゃうふふ」は平和・友愛・穏当・日常・永遠そのものである。現実の苦悩や社会関係・利害関係の全てを超越した真なる善としての友愛として、「きゃっきゃうふふ」が存在する。

だからこそドラマティックな話であるはずの『LAIDBACKERS』は日常コメディになってしまった、とは言える。

本来であれば、逆異世界転生によって終わりなき戦乱で殺し合いだけが日常になってしまった魔王と勇者の関係がリセットされて、新しい関係を築き、しかしそこには解決しえないほどのわだかまりが残ってしまうことに断念を抱えながら、運命の残酷さすら人々の絆は乗りこえていけるはずだという強いメッセージを示すべきであった。

 その課題は物語世界が二重写しにするであろう現実世界の世界史的な国境問題や移民・難民・そして国民感情といった、曖昧であるがゆえに、そして論理や技術や妥協や政治でなんとかなるようなものではない人の業と歴史の闇にまみれた人間社会を相対化させる、神なるものへの階梯になる可能性を秘めていた。

だが、この映画はそんなテーマをうまく掘り下げられたかといえばまったくそんなことなく、平成最後の作品が正直、優しくいっても、限界までのあまあまの評価をくだしたとしても「駄作」――これは「傑作」とは言いがたい、ぐらいの評価だと理解してほしい――が、になってしまったことは否めない。

否めないが、だからこそ、この京都を舞台にした妙にノンビリした作品はごちうさジェネリックとしての医薬効果が期待されている。そりゃ「きゃっきゃうふふ」を取り出そうとすれば当然『恋する小惑星』や『ステラの魔法』を閲するべきであるが、それらはごちうさとは異なるテーマを持ってしまっている。

むしろ『LAIDBACKERS』とは、本来そうならないはずの作品をきゃっきゃうふふ化させる錬金術に挑んだ作品として無量大数の得点加算を行うべきであり、たかだ一時間でごちうさ禁断症状(SSSSSSSS級難病)の痛みを軽減させることができるのだから見るべきなのである。


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