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「ゲームがつまらなくなる日」

先日のブログの続き

「ゲーム“なんか”やってる場合じゃない」

http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20151025/1445747315

あれからいろいろブログを読んでいると、しろくま先生(はてなブログの有名ブロガー)の「30の頃はゲームやってることに違和感なかったけど、今はなんだかゲームなんかやってても意味ない気がする(かなり意訳)」という記事が目に飛び込んできた。

この記事を読んで深く共感した……わけではない。けれども、いつか共感せざるを得ない日が来るかもしれない。戦慄した。ゲームは無駄だ。無駄だからこそ、僕らはゲームに熱中したのだ。というか、見事30歳を超えてしまった僕だって未だにゲームに夢中なのだし、その日が来た時の僕はいま遊んでいる「ゲーム」に兌換できるような何かをしているのか想像がつかない。

僕らの子供のころ(1990年代初頭)には「特急下校」が問題とされていた。くだらない学校の勉強をかなぐり捨てて、テレビゲーム(当時は据え置き型)をするために急いで家に帰ってしまうという現象の事だ。いま思えば何が問題なのかよくわからないけれど、当時の大人の観念として「家では家族だんらんをするべきであり、ゲームするべきではない。それに学校からは急いで帰ってはならない」という物があったのだろう(しらんけど)。もっと端的にいえばゲームやってて勉強しないから問題だとのが本音だったのだろう。

その世代を直撃した僕らにとって「ゲームなんかやってる場合じゃない」と思う日が来るかもしれないという予感は『幼年期の終わり』に等しいというか、幼年期の否定である。子供の頃に夢中になっていたものが、空虚なものになっていく経験は誰だって抱えているにせよ、それらを無駄と切り捨てることに抵抗があるのはあくまでも心理的なものだ。だから2000年代には「テレビゲームは有害なものではない」と主張する実証研究が進み、その一方でゲームの主役は携帯ゲーム機とスマートフォンへと以降していき、もはやゲーム自体の善悪を論じる態度は時代遅れとされている。

新鮮な感動だったのだ。それは

新鮮な感動は麻薬のようなものだ。もっと強い刺激がなければ、すぐに廃れてしまう。だから中世の人々は究極の刺激(死と闘争)を願うか、でなければ刺激の虚無へと邁進した。

いわゆるビデオゲームが生まれ、普及してからそろそろ30年近くたつ。僕は、この「虚しさ」にはいくつか種類があると思う。

例えば文学は近代に導入されて比較的すぐ、「こんな馬鹿なものに夢中になって」という感じを人々に与えた。しかし、「馬鹿なもの」だからこそ「夢中になる」ことがかっこよかったのだ。明治大正には、大学内の文学部の整備がすすみ、諸外国との文化的な比較に耐えうる(らしい)ことを文学は保証した。無駄な教養は、一つのかっこよさになった。(だから文学部がかっこいいものとしてたくさん作られ、後に女性たちの高等教育を支える事になった)

今のところ、ゲームは文学が手にした「かっこいい無駄さ」をついに手に入れることができなかった、と総括してもいいと思う。その理由はいくつかあるけれど、最たるものは「ビデオゲームは功利的だ」からだ。

一時期僕は熱心にシリアスゲームについて調べていた。結局ものにならなかったけれど、教育にも使えるゲーム、という触れ込みは相当に大人たちの心を揺さぶったらしい。だが、実際にもっとも遊ばれているシリアスゲームは陸軍隊員になってイスラム教徒を殺しまくるという不毛なゲームだった(今は少し事情が違うにせよ、さして変わりはない)。刺激。タブレットで電子教科書にしても殆ど教育効果がないのは多分この刺激の少なさによる。

一方で、ゲームを基軸にした教育はお世辞にも凄まじい成果を上げているとは言いがたい。コレもいろんな事情があるが、学べる事柄が単線的すぎるのと飽きた時にゲーム側ができることがないからだ。単純な勉強と少しここは違うところで、まあ僕も結論から言えばゲームだけで教育は無理だと言うのが無難だろうと思う。ゲームは最高のかっこよさを持てない。どれほど社会に広まろうと、無駄なものには違いないのだ。

なんにせよ寂しいものだよ。「飽きる」ってのはさ。


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