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夢と思い出を通る『街並みの美学』

少し本を整理した。本当はどこかにあるはずのカメラを探し出さないといけないのだけれど、見つからなかったのだから仕方ない。

代わりに、芦原義信の『街並みの美学』が見つかった。イタリアと日本を中心的な事例に建築について考えるというエッセイ集で、都市構造論や都市景観論の古典として今でもたまに言及される。


この本は、誰か特別な人から貰ったものだったと記憶していたけれど、そうではないかもしれない。

特別な人の特別になりたくて背伸びして買った本かもしれないし、建築書にハマっていたころにダラダラ購入した一冊だったかもしれない。

書物と記憶はもっと強く、しっかり結びついているものだと思いこんでいたけれど、そうでもなかったのかもしれないなあと思って少しさみしい気持ちになった。誰のために読んだ本だったのだろう。

街並みと家の話

『街並みの美学』にはいろいろなことが書いてあるが、その基本的な疑問は「どうして日本人は靴を脱いであがるのか」についての哲学的な思弁であると言い切って良いと思う。日本の伝統建築では真壁作りという壁を薄くして柱を魅せる建築技法が使われるが、ヨーロッパ圏ではまずこの真壁造は存在しない。構造物を壁に隠しこむ大壁造だ。


この違いは、要するに「内」と「外」の関係性に由来すると芦原は考えている。日本人にとって家は「内」であり、完全な私的空間である。外と隔絶されている。一方で、ヨーロッパ圏(イタリア等)では家はまだ外との公共性と連続している。靴を脱がないのは、そのような「外」との意識のつながりのためだ。

そこで、芦原はあらゆる技法(気象とか、D/H比とか、地図の白黒反転とか)と詭弁的な論証を使いに使って、日本とヨーロッパ的建築の違いと同一性についてしつこく考え続ける。大体においてはたぶん的外れな見解なのだと思うけれど、この時代にはこうした「日本人」の独自性を過去の生活様式から考えるスタイルが流行した

日本人論が昔存在したのだった。

山崎正和に「水の東西」というエッセイがある。

ヨーロッパと日本の橋や川についての論で、まだ教科書にも取られているとおもう。これは不思議な不思議なエッセイで「日本とヨーロッパを水から比較する」ような書きぶりで「水を使って日本をヨーロッパと隔絶させる」ことに心血を注いでいる。その筆致は冷徹だが狂気だ。

山崎が信じ込んでいる「日本人的な」橋や川との付き合いはおそらく江戸後期まで存在しなかったし、土地所有を川が隔てることや川の向こうを異界視する視線はそういうふうにみない文明を探すほうが難しいだろう。

それでも、日本と世界が唐突に並列するこうした世界論を書かなければ、日本は「JAPAN AS NO1」になれなかった。それに「日本人」であることにアイデンティティを持てなかったのだ。当時の日本は「世界」に対して異常なほどの猛々しい劣等感と卑屈な優越感を持っていたのだ。それを代弁するために、知識と文学はなんでもした。なんでもだ。

街並みがなくなったあとに。

『街並みの美学』はやはり名著だった。トイレで半分ほど読んでから、そう思った。

街並みは、そこに住み着いた人々が、その歴史の中でつくりあげてきたものであり、そのつくられかたは風土と人間とのかかわりあいにおいて成立するものである。

芦原のこの宣言は、いわゆる「街」から自動車で40分のところにあるシャッター街を見て飄々と言えるものではない。町おこしや街造りは、住みついた人々が住まなくなった人たちの抜け殻を、まるで自らの汚れであるように忌み嫌い、人々が流動して流れどこかにいき、住みついてまた消えるサイクルの速さを期待するものだ。

真壁造りの、日本の伝統建築は、新しくもう建てることができないはずだった。地震や消防のために、壊れない家、崩れない家、燃えない家、何もおこらない四角い壁に囲まれた家に住むことを義務付けられた。

世界のどこにいっても同じように、四角い壁に閉じ込んで住むことを期待される。その時代の「街並み」とは、ようするにレゴブロックと区別の付かない風景が無限に続くことの謂でしかない。そうでなければ、派手な色を使わないようにグローバル企業に申し入れることぐらいだろう。

奈良公園にホテルが建つ時代に、街並みはもう美しい美学に裏打ちされた歴史そのものではない。その先の未来の真っ平らさを見ないでいた芦原の本は、そこから見える街並みは本当に美しかった。美しくて、もうなくなってしまったのだ。

『街並みの美学』が教えてくれたのは、むしろシャッター街にも歴史があるという当たり前の出来事だった。もう人が住まなくなった歴史の隣にこそ、人々の記憶と生活が重なっていく。九龍城がなくなったあとの香港の人々も同じことを思ったのだろうし、これからも灰色の単調な「家」の集合の中で、僕も朽ちるまでもそう思うだろう。





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