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「物語を買う理由」を探して、探し続けて。

最近は見なくなったが、数年前はよく、大学や商工会の企画で小さな中小企業の職人達が作った一点物に職人達の「物語」を付けて売ることが流行っていた。

生協やスーパーの角に据え置かれた、竹串、うちわ、漆器など、その道を歩み続けた仕事人が真剣なまなざしを向けてーーちょっと恥ずかしそうなウワツキも見せながら、何かの製作に向きあっている写真と、その人生の略歴と、使いふるされたキャッチコピーが並んでいる。

多くは素朴なもので、機械製品であるよりも伝統工芸だった。

それらの商品の解説を見るのは好きだった。

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たしかにその一点物の多くは、コストと製作時間からすれば〈芸術〉作品とは言いがたいものだったが、普段使いでも壊れにくい工夫や使いやすい絶妙さ、としか言いようのない造形をしていて、竹串ぐらいなら買っても良いかなと思って十本五百円の竹串を買ったことはある。

昨今そんな「物語」を見なくなったのは、たんにこの商法がうまくいかなかったからだろう。表向きは値段のやすい海外産に負けた、ということになるだろうが、本質的な問題は別にある。

「物語」は買う理由にならないからだ。

それは無論、職人達の人生が無価値だというわけではなく、その物語の工夫でブレイクスルーが起こりうる可能性を否定するものでもない。ただ、関心があろうとなかろうと、私たちの日常は購買活動で埋め尽くされていて、もっとドライにいえば「金を稼ぐところよりも、払うところのほうが多い」のだ。お金を払うことは呼吸をするような事柄で、ただ資金が減っていくのは苦しく、この呼吸は深海でなくなる酸素ボンベから供給される

できれば、呼吸を、したくない。

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それでも私たちが年がら年中何かを買うとき、その心はたぶん無である。稀には喜びやうれしさがあることもあるだろうし、ボーナスなどで大金を支払うこともあるだろう。それでも、買い物はなるべく虚無の心でいたいはずだ。買い物は「面倒くさい」から「便利」なシステムに依存せよとあらゆる量販が叫んでくる。

たぶん、今のような大量消費社会になる前の時代では、購入はそんな面倒くさいだけの呼吸ではなかった。

 市場があり、値切りがあり人がいて、商品にはヨシアシを見分ける目が必要だった。買い物は「人」のことだった。今は機械とアマゾンが代弁するそれは、生活における大事だったはずだ

その時代であれば、職人の「物語」は値段以上の価値を持たせる力があったかもしれない。魚屋のダミ声が消えた商店街で、目の前にいるペッパー君を前に職人の「魂」を聴くことは乾いた笑いがでそうになる空しさだけを伝えてくるだろう。

じゃあもう職人の一点物は売れないのだろうか。たぶん売れない。私たちは透明な店員を求めている。空気を吸うように店に入り、できれば誰とも会話せずに外に出たいと思っている。職人の一点物を買う余裕も、徐々に(というか、多くの普通の人は、愚かな経済政策によって)失っている。職人達の物語は我々の不便の前に無価値になりつつある。そしておそらく無価値だと断ぜられたからこそ、そんなものを見なくなったのだろう。

でも希望はあるかもしれない。明日はそれについて記そうと思う。

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