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女の子について――iaku「walk in closet」と激情コミュニティ「夏服を着た女」

劇評というほどでもないけれど、最近ちょっと離れていた演劇を立て続けに見る機会があったので少し思ったことを書いてみる。

iaku「walk in closet」

タイトルの通り、セクシャルマイノリティをテーマにした戯曲。一室一幕で一時間半、一気に魅せる戯曲の力は並大抵のものではない。しかも極めてデリケートな問題を扱ってだ。人によっては全編が社会派劇だと思うだろうけれど、体裁はきちんとした会話劇でありディスカッションであり、カンバセーションであり、そして家族劇になっている。

iakuの横山戯曲を演出家の上田一軒氏は真っ正直なストレートプレイで演出する。つまるところ「普通の芝居」なわけだけれど、これだけ直球で投げられるのは戯曲の、作家へのひたむきな信頼がなせる技だろう。上田演出に対して、もっと演劇的な要素を持ち込めばもっと面白い演出ができるという〈確信〉を抱く演出家は少なくはないだろうと予想する。でも今のiakuはこの演出が一番安心するなあというのが僕の感想だ。

ところで、この「walk in closet」には橋爪さんというちょっとキツめの感じの役を演じる女優さんがでている。前作の「流れんな」でも同じようなキツい性格の人物を演じていて、横山戯曲の中では外せない存在になりつつある。一見するとセクシャルマイノリティの話である本作は裏を返せば女の子であることをめぐる物語とも読める気がする。ネタバレになるので黙るけれど、本作で一番割を食っているのはこの子だからだ。この子を中心にして読み解くと、女の子である事をもってしても、性的志向の壁を超えられなかった話になる。

でも、オシャレでセクマイに対して理解のある意識の高い彼女(というキャラが本心かどうかもわからないけれど)の内心を慮るのは実は難しいのだけれど。

林英世さんのお母さんが保守的な「THE ハハ」であるから、その落差は深い。

アーウィン・ショー「夏服を着た女」

そのあと、代田橋のカフェで開かれた「夏服を着た女」を見た。アーウィン・ショーの夫婦劇を女性六人でやるという不思議な形態の公演で、あんがい面白かったけれど後半のさして面白く無いコメディといい小道具回しといいニューヨークの説明といい、激コミのいいところと悪いところが両方でていたように思う。

とても真面目な演出家は本質的につまらないところを必至に、自分で背負い込みすぎるぐらいに背負い込んで面白くしなければと思ってしまうらしかった。きっと杉原邦生なら(比較に出しちゃだめな気がするけれど)、飽きたつまんないやめようといって切るところを、だ。その持久がいいほうにいつか向かってくれればとも思うし、もっと気楽になれよとも思うし、あるいは俳優たちがなんとかしろとも思うし、しかしこれを飲み込んでこその激コミとも思う。つまるところどうしていいかよくわからない。

 それでも、アーウィン・ショーの掌編小説に出てくる生真面目な女性と、都市空間の中にいる着飾ったおしゃれな女の子たちに目を奪われる男との会話は、男女ではなく女性女性で話すことで不思議な色合いが添えられていた気がした。ああそうか、こういう男の子になりたい女の子もいるのかなあと、居眠りを始めていびきをかきかけた臨席の老人を小突きながら思った。男になりたい、女もいるし、女と話したい女もいる。そういう複雑さをごちゃりと詰め込んでいて、なんだか、そうか、わかんないけど、おんな。ニューヨークの碁盤をうろつき回る女。という感慨にふけった。ヒューガルデン飲みながらだけど、そういう欲望がそばにある分かりやすさがよいと思った。

 声の通りにくくて見にくいカフェ公演だったけれど、冬へ差し掛かる季節に夏服をきた女優たちはがんばっていた。藤原未歩は宝塚の男役のようにかっこよくあろうとしていた。声の通りもタッパもあって、感情表現が豊かで演技もうまいけれど、自分自身の表現に振り回されているような惜しさがあった。兼桝綾はパントマイムで鍛えただけにゆったりとした動作が上手で、なんだかどくとくの時間感覚を舞台の上に顕現させる。フランスの俳優たちの舞台をなんどか見たことがあるけれど、彼らの非常に表現力のたかいキビキビとした動きとは真逆の、なんだろうね。能を見ているような精神性がある。もっと一言でいえば、ゆったりした所作があるなあと思った。

給仕の女の子は可愛らしかったけれどもう少しセリフ回しを練習したほうがよく、コミカルな女の子はもう少し動きを抑えたほうがよく、全員総じてもう少し声をあげて1kg痩せた方がよいとは思ったけれど、演劇をすることで彼女たちの幸福がどこかにつながっているんだなと思いながら電車にのって眠りこけ、それはきっと演劇の一つの本質的なよろこびなのだろうとおもって、そのまま寝過ごした。

この2作品はたまたま見た2作品でそれぞれ関係はないし、作風も違う。iakuをみて激コミをみたら13人に一人は怒りを感じるかもしれないし、激コミをみてiakuをみたら9人に1人は演劇を見直すかもしれない、というぐらいの技量差があったのは間違いない。でもその逆もあるだろうとは思う。でも、どれほど優れた作品でも全てを描くことはできないんだなと少し思った。

つまり、なんだかiakuの時に感じた、すさまじくおざなりにされている何かが激コミでは素直に表現されていた気がして、ああ、演劇、と思った次第なのである。


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