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グラビティデイズの考察

始めに

 今更ながらグラビティデイズ2をプレイし、そして感銘を受けました。しかし同時にグラビティデイズのストーリーには謎も多く、またネット上に点在している考察を見ても納得のいかない点がいくつかありました。そこでそれらの考察に幾つか変更・補足を加え、自分が(ほとんど)納得のいく仮説を考えましたので、備忘録も兼ねてここに記しておくこととします。
 また考察の性質上、自身の考えを断定口調で記している箇所がありますが、劇中の事柄から推測して得た仮説に過ぎず、一つの解釈に過ぎないことに留意してください。また、考察なので、当然グラビティデイズ、グラビティデイズ2のネタバレを多分に含みます。なお、補足と蛇足の項については読まなくても問題ありません。
(サムネイルはPS4のスクショです)


目的

 グラビティデイズのストーリーにおける最も大きな謎。それはなぜ破局的意識との闘いにおいて死んだクロウ(※)がなぜエピローグで生き返ったのか。また破局的意識に抗うため特異点となったキトゥンがなぜエピローグで戻ってきたのか。この二点に尽きます。このnoteはそれに説明を与えることを目的とします。
(※エピソードリプレイなどで確認できるエピソード25のあらすじに「無残に息絶えたクロウの姿──。」という記述があります)

この世界の大原則

 まず、この作品は、「ゲーム作品である」ということを活かした一種のメタフィクションです。
 三人の神、シアネア、ゲイド、ビッドはそれぞれゲームの企画・構想部分、デザイン・モデリング部分、プログラム・デバッグ部分におおよそ対応する神であり、この三者三要素が互いに支えあって、このグラビティデイズというゲームの世界を作っています。より厳密にいえばグラビティデイズ世界はシアネアの見る夢であり、夢の番人、ゲイド、ビットの三人がその夢を支えています。
 そしてゲームの世界なので、当然ゲームとして成立しなければなりません。すなわち
・プレイヤーの動かす主人公がいる
・この世界には主人公が戦うべき脅威がいる(平穏は続かない)
・神が直接的に脅威に対処してはならない
・物語に矛盾が生じてはならない
・物語のエンディングがある
等々、ゲームの世界としては至極当然のルールです。こうしたルールは上記に箇条書きで示したような細かい”原則”と、「ゲームとして成立しなければならない」という”大原則”に分けられます。大原則を守るために細かな原則が存在するのです。神達(=ゲームクリエイター)は基本的に大原則を破らぬように、最低限に原則を破って物事に干渉し制御するのです。

破局的意識

 ゲームの世界においてはラスボスは不可欠であり、それは脅威の根源でなくてはなりません。またゲームの世界というものは”繊細なガラスでできた複雑なパズルのようなもの”であり、どこかで大原則が崩壊、つまり”破局”(辞書によれば、「事態が行き詰まって、関係・まとまりなどがこわれてしまうこと」)しかねません。そうした諸々のゲーム上の都合によって生み出された存在が破局的意識です。
すなわち彼はラスボスであり、彼を倒せばゲームは否応なしにエンディングを迎え、ゲームの世界は終わりを迎えます。また、これは大原則が崩壊し、この世界がゲームとして成立しなくなってもこのラスボスさえ出せば、一応のエンディングを迎えることを意味します。さらに考えを推し進めると、ラスボスを倒した後の世界はゲームとして成立しなくなり、大原則が崩壊した状態とも言えます。つまるところ無事に大原則を維持したままラスボスまでたどり着こうが、ラスボスを倒してしまうと、結局”破局”し、この世界が無に帰すのみなのです。

メタな都合による世界の書き換え

 おそらく最も”標準的な(※)”グラビティデイズのストーリーは、主人公であるアルハがグリフォン(或いはスフィンクス)の守護獣の力で重力使いとなり、自ら特異点となり、ブラックホールを生み出し、破局的意識を押しとどめることで、エンディングを迎えることです。しかしこれは我々のプレイしたストーリーとは少し違います。
 まず主人公のアルハからもう一人の主人公クロウが分かたれました。また守護獣もダスティ(猫)とクシィ(鴉)に分かれてしまいました(ビットを始めとする神達にキトゥンとクロウは本来同じ存在と言われるのはこのためです。余談ですがカイの守護獣ヴォルペルティンガーはドイツの民間伝承に登場するキメラであり、アルハの守護獣も本来はGD2及びそのDLCのラストで登場したグリフォンあるいはスフィンクスのようなキメラであると考えられます)。分かれた理由はおそらくそのほうがゲームが面白くなる為に神(ゲームクリエイター)がそう定めた、或いは劇中の神の言動を見るにさらに上の人物(上司、ユーザー等々)かもしれません。いずれにせよグラビティデイズ世界よりもメタな(高次元の)世界の話です。
 ともかくそういったメタな都合による世界の書き換えにより、アルハの守護獣が目覚めず、その為にエトの住民から支持されなくなり、破局的意識への対応が先延ばしにされ、アルハは地上に堕とされ、シドーも殺されるという”標準的なストーリー”からの逸脱が起りました。それは”大原則”を破ることにも繋がりかねません。メタ的には大原則を守るため(物語的にはシドーとキトゥンの想いに動かされたため)神達が”原則”を破ってまで、物語に干渉し、破局に対して抗い始めます。
 そして”メタな都合による世界の書き換え”による大原則崩壊(破局)にも繋がりかねない出来事として”箱舟”も挙げられます。
 明らかにGD1時点では、続編で箱舟関連のストーリーを本編に絡ませて展開するつもりだったと推測されますが、結局ジルガパララオという新天地を舞台にした物語に置き換わりました。こうした物語の矛盾は正に「ゲームとして成立しなければならない」という大原則を根底から揺さぶる破局の危機です。こうした”メタな都合による世界の書き換え”によって産まれた矛盾点を神達はクロウを導き、事象の書き換えを行うことで解消しようとしたのがDLCのクロウの帰結です。このDLCにおいて重要なのは、事象の書き換えが可能な点、そして「事故に遭わなかったザザ」と、「事故に遭ったサチア(クロウ)」という矛盾する存在が(クロウを始めとする関連人物の記憶の書き換えを行うことで見かけ上の矛盾をおおよそ解消していれば)同一世界に同時に存在できる点です。
(※”標準的なストーリー”というのは、劇中で神達が度々言及する”本来の姿”)

結論

 さて、最初に述べた最も大きな二つの謎に対する答えにたどり着く為のパズルのピースが全てそろいました。
 結論から申し上げますと、キトゥンは特異点となった後、ビットの助けを借りて、事象の書き換えを行い、グラビティデイズの世界を”ゲームの世界ではない”ことにしました。
 順を追って説明します。
 そもそもこの世界に破局的意識が存在し、破局が確約しているのはこの世界がゲームの世界だからでした。そして、何故ゲームの世界であったかというと、この世はシアネアという神(ゲームクリエイター)の夢であったからです。ゲームクリエイターの作る世界なので、当然ゲームの世界である必要があります。
 またキトゥンは破局という選択肢か、ビットに提示された特異点となり破局的意識を食い止め続けるというもう一つの選択肢の内、後者を選びました。しかしそれは単に破局を無限に先延ばし続けるというものであり、クロウの蘇生には結びつきません。それに特異点となる為に暗黒の海に飛び込むコミックパートのコマではダスティの他にクシィも一緒について行っている為、その後のエピローグと矛盾します。
 そうした諸々の疑問を晴らす手助けとなるのが、狭間の世界で記憶を取り戻した直後のキトゥンと神達との会話が描かれたコミックシーンです。そこで、シアネアは「いえ、そもそもこの世は神の夢ではなく、人の子の夢なのかもしれません」と発言します。推測という形ではありますが、この世界が神の夢でなく人の子の夢だとしても存在し得るということが示唆されており、キトゥンもそれを耳にしています。
 DLCで最初からバスの落下事故なんて無かったと事象を書き換えたように、この世は最初から、「神(ゲームクリエイター)の夢でなく、人の子(グラビティデイズの世界に住む人々)の夢である」と事象を書き換えたと仮定すると、エピローグ、そしてエピローグ後の世界では、この世にゲームに必要不可欠な物語や脅威、そして破局といった全てのものから解放され、グラビティデイズの世界は平穏に続いていくでしょう。
 最後に、グラビティデイズ公式アートブックには新規に書き下ろされたコミック「GRAVITY DAY DREAM LAST EPISODE」が収録されています。僅か2Pの作品ですが、シドーがエイリアスの服を着て素顔でキトゥンの前に現れている為、エピローグのお話だと推測できます。そこには消えたはずのゲイド、シアネアも登場する上に、カーリィによく似たバニー服姿の女性が登場します(※)。ゲームの世界であるという事象を書き換えたグラビティデイズの世界では、神もゲームクリエイターの化身という役回りを降り、同じく劇中でキトゥンに倒された人物も悪役という役回りを降り、何の変哲もない普通の人間として生きてるのかもしれません。
(※おまけ漫画なのだから、整合性を無視して登場人物を登場させただけでは、と邪推することもできますが、その割にはサブクエストで出会う準モブも登場する一方で、キトゥンと面識のないことになったザザやその孫、時空の旅人(GD2DLCの最後のコマにしれっと夫婦揃って描かれており、事故そのものがなかったという事象の書き換えが行われたことが示唆されています)、更にヘキサヴィルから遠く離れたエトの民である、カイやキルハといった主要人物の面々が登場していません。またカーリィの姿をわざわざ変更しています。よってエピローグ後の正史として描かれていると判断しました)

補足

 このゲームは最初に述べたようにメタフィクションであり、三つのレイヤーに分かれています。すなわち我々の生きるこの現実世界である上層、グラビティデイズの住人が生きる下層、そしてその間に位置する上層と下層を繋ぐものが暗躍する中層です(※劇中における上層、中層、下層という同名の概念とは全く関係ありません)。上層に行くほど”メタ度”が上がります(より高次元になる)。グラビティデイズではこの”メタ度”のそれぞれ違う記述が共存していることがしばしばある点が、話の難解さに拍車をかけます。
 分かりやすい例をあげましょう。例えばグラビティデイズ世界の成り立ちは全く異なるものが二つ存在します。一つ目は三人の神から語られる「世界は神が作った」という言説、二つ目は放浪画家サガシの絵に描かれている「創世神話」(中でも最初に位置するのは「見よ、泥の如き混沌から大いなる花芽が生まれる様を」でしょう)。この二つは一見矛盾するように見えますが、単に”メタ度”が違うだけなのです。すなわち「この世界は”サガシの創世神話”のように作られた」という設定を神達が作ったのであり、神様の創世は”サガシの創世神話”より一つメタ度が高い(高次元)のです。換言すると上層・中層のレイヤーにおける世界の成り立ちが神様の語るそれ、下層のレイヤーにおける世界の成り立ちが”サガシの創世神話”であり、これらは劇中で共存しているのです。
 そして私が補足以前に長々と語った考察は殆ど上層・中層のレイヤーにおける説明です。その点に注意して読めば、下層のレイヤーにおける記述と矛盾しないはずです。


蛇足

 無事このnoteの目的を果たすことができましたが、まだ語り切れていないことが無数にあります。
 例えば、幾何の城で会った赤キトゥン(ジ・アザー)は”標準的なストーリー”の、いわば別の世界線のキトゥンであり、守護獣が分裂していない完全体であるが為にグラビティフェリンの能力を使うことができ、それをキトゥンやクロウに伝授する為に神達によって連れてこられたこと(幾何の城直前で、神達が「本来ならば異なる時間列に存在する活動体だ」「眠れし者(キトゥンとクロウ)と呼び覚まし者(ジ・アザー)の邂逅が生み出す奇跡(グラビティフェリン顕現)を」と語る部分から推測可能)。
 破局的意識の最後の唆しは、初代ドラゴンクエストの竜王のそれのオマージュであり、唆しの内容が意味するのは往年のRPGのようにゲームクリア(破局)後に直前のセーブデータに戻ることであること。
エピローグにてカイが消えたのは、事象の書き換えによる矛盾を見かけ上消去するために(DLC最後でクロウの記憶を一部書き換えたのと同じ)、エトに帰された(存在を消去してもよいがキトゥンの性格的に考えにくい)ためであること。
 GD1冒頭の「もう一つの方法を選んだ」というキトゥンの台詞は、下層の民を見捨てずエトに連れてくるという方法、破局的意識による破局を受け入れるのではなく自らが特異点となる破局を食いとどめ続けるという方法、そして(今回の考察が正しいと仮定した場合)「この世は神の夢ではなく人の子の夢である」と事象の書き換えを行い、ゲームの世界から解放されるという方法、という異なる時系列におけるそれぞれの選択を意味するトリプルミーニングであること。
 他にも色々ありますが、全て書くときりがないのでここで筆を置くこととします。
 最後に、グラビティデイズシリーズはとてもいい作品でした。なんといっても街並みが素晴らしく、プレイ時間のほとんどはジルガパララオやヘキサヴィルの街並みを目的もなく歩くことに費やしたほどでした。この考察記事を書き終えれば、街並みを散策する程度のことはあれど、グラビティデイズに深く触れることは殆ど無くなるのかと思うと寂しい限りです。ともかくプレイできて良かったと思えるゲームでした。

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