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『生活』が嫌い

「生活」が嫌いだった。
ちゃんとやったって誰にも褒められないし。
自分のためにしっかり時間をかけなくても、生きていけるし。
しかし「生活」を嫌ったままでいると、いちばん下に転がっていたはずのQOLがさらに降っていく。
まだまだその下があったんだなぁとそれを眺める。そんな日々だった。

そんな中、骨折がわたしに新たな気づきをくれた。
仕事はリモートで、本当にすることがなくなってしまった。
時間ができたので、少しだけ生活や行動を変えてみた。
するとあら不思議。ちょっとだけ「生活」というものが好きになってきたのだ。
丁寧な生活をしている方からすると、引いてしまうほどしょうもないことばかりなのだけれど、何をしたのか、何が変わったのかをメモしていきます。

クローゼットを閉めた

「えっこのレベルの話?」と驚いた人。その通り。ここから先は、この次元の話をします。
毎日2回も開けるんだから開けっ放しの方がよくない?と、クローゼットは常に開けっ放しだった。
なんなら玄関のカギを閉め忘れることすらしょっちゅうあった。
クローゼットを閉めるだけで急に部屋が片付いた気持ちになる。
自分の部屋って案外広かったんだなぁと思う。
そう気づくと、家具の配置が気になりだす。
もしかしてこの部屋は、もっと快適な状態になるのではないかと、むくむく思い始めた。

出したものをあった場所に戻した

小学生へのお説教ではなく、20代後半の女の話です。大真面目に描いてます。
例えば毎日身に着けている指輪やピアスなんか、どうせ明日も付けるしなぁと机に出したままだった。
きちんと仕舞ったことで、ふたつ良いことがある。
まず、机の上に何もない状態が保てること。なんとなく視界が雑然としたままで、なんとなく料理をして、なんとなく落ち着かない気持ちのまま食べていた。
机にものが無いだけで、きちんと盛り付けようだとか、もう一品増やそうという気持ちになるのだから不思議だ。
ふたつめは、毎日違うアクセサリーを身に着けるようになったこと。
今までは机に出てるものをとりあえず着けるので、毎日同じものを装着してしまっていた。
せっかくお気に入りのアクセサリーがあるのに、本当にもったいないことをしていたと反省。

湯舟に浸かった

湯舟に浸かってから熱いシャワーで体を洗い、のぼせてぶっ倒れるという愚かな行動を繰り返していたため、湯舟が苦手だった。この頭の悪い話、何?
しかし、お風呂お湯の温度を調整できる、ということに気づいてから湯舟に浸かることができるようになった。
わたしは生活においてちょっと馬鹿なのだ。

あと湯舟に浸かるのって単純にめんどくさい。
そこには、自分の特性を利用した。
私の場合は「めんどくさい」<「もったいない」なので、何も考えずお湯を張ってしまえば「お湯がもったいない…」という気持ちが勝って湯舟に浸かれるという寸法だ。
何かを変えるとき、自分の特性を理解しているというのはかなりでかい。

捨てるぞ!ってまとめていたものを捨てた

小さめの家電とか、グラスとか、電池とか、PCのモニターとか。
日常で出てこないゴミを捨てるのって、脳みそやエネルギーの、普段使わないところを使う。
溜まっていたものを、全部捨ててやった。とんでもない達成感。
ここでまた、部屋が意外と広いということに気づいた。
なんと、家に飾るために、お花を買った。そもそも花瓶なんてものは当然無かった。花瓶を買った。誰よりも自分がいちばん驚いている。
この私が・・・部屋に・・・花を・・・

推しの力を借りた

接触の機会がある推し(まだ恐れ多くて推しと呼んでいいレベルではないのですが、ここはスムーズな理解のために便宜上”推し”と呼ばせてください。オタクというのは本当にめんどくさい)ができたことで、痩せたい綺麗になりたいという本来の欲求が止めどなくあふれてきた。
間食をやめ、ダラダラと食事をせず、毎日ストレッチとマッサージをし、毛穴洗浄をし、パックをする。
推しの力、恐るべし。

まとめ

わたしは生活が嫌いだけれど、こうすれば快適に過ごせるのか、と生活の気づきを得るのが好きなのだ、たぶん。
そして、書き出したことでこれまでの自分がいかに雑な生活を送っていたかを知り、ゾッとした。
これからも、当たり前のことを大げさに書いていきたい。

とはいえ、一番大事なのは、うまくできなくても習慣にできなくても、自分を責めないことだ。
面倒だったら買ってきたトマトを洗わずに食べたっていいし、下着をネットに入れず洗濯機にぶち込んでもいい。そんなことで人は死なない。
しんどいとき、つかれたときは自分をめちゃめちゃ甘やかしていい。
どうせちゃんとしてなくても死ぬわけじゃないということを、わたしは知っている。これは生きるうえでの財産である。

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