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博士課程を指導する力~その1

博士を取れなかったら、指導教員の責任だ

どっかのツイッターで、誰か、博士を持っていてご自身も学生を指導しているだろうとおぼしき方が、


「博士の学生を3年で修了させられないのは、指導教員の指導力不足だ」


みたいなことを書かれていて、ちょっとショックを受けている。

なんでショックを受けているかというと、3年では出られない人は実際にいて、これからもそういう学生は出るわけで、それが「能力不足」に結びつき、さらにそれは一方的に指導する側に帰する問題として片付けられていたからである。要するに、今後、そういう学生が出るたびに、僕が落ち込まなくてはならない。


呪いやん。

というわけで、今回は、「博士課程」、正確に言うと「博士後期課程」の指導について考えます。長いので数回に分けました。本日、その1。

「指導」とは何をすることか

博士課程の学生の指導は、想像される以上にハードだと思う。ハード、というか難しい。難しいというか、悩ましい。


博士の学生さんの研究は、高度に専門的であり、同時に必ずしも指導教員の専門に一致しているわけではない。一致していればそれに超したことはないのかもしれないが、まったく新しい分野を開拓しようとする学生の場合、むしろ専門が一致することが弊害になることもあるし、マンパワーの問題もある。さらに、最初は同じような専門分野だったはずが、研究が進むにつれ、別の方向へと学生さんが(あるいは教員が)進んでいって、気がつけばもうまったく別の道を歩んでいた、みたいなこともある。バンドだったら「方向性の違い」で解散である。


一言で「指導」と言っても、何をどこまでやれば「指導」なのか? 教員の業務と思われるものをあげるとこんな感じ。


1 情報の提供→やります

2 論文/発表の内容へのコメント→やります

3 作文指導→可能な限りやります

4 答えを与える→無理


1 情報の提供というのは、「こんな研究がある」「こんな論文があるから読みなさい」というやつである。2 論文/発表へのコメントというのは、学生の研究の内容の途中経過に対して、「こうすればもっと良くなる」「あなたのその考え方を証明する方法を考えましょう」というアドバイスをすることである。3 は、研究の内容を文章に提示するときのお作法、わかりやすい文章の作成のお手伝い。留学生の指導の場合、こちらは結構手間がかかる。 4 これはやってはならないこと。これを「導く」ことだとは、僕は決して思わない。


教員ができることはせいぜいこんなもんである。一方、これらの教員のアクションに対して、学生にはどのような反応が求められているか。


5 与えられた情報から、さらに情報を収集する。なんなら教員に「こんなんもありましたよ」と言ってくれる。このために学会に参加する、小さな研究会に参加する、他大学の院生とつながるなどなど、要するに教員の少しの背中押しに対して、坂を転げるように加速度的に自分でやる。

6 受け取ったコメントからさらに考察を深める。


紹介された論文を読むだけ、受け取ったコメントに表面的に答えるだけ、では自分の研究が進まないばかりか、自分の研究能力が向上しない。


例えば、「例文の提示の仕方が単調ですね。もっと現象ごとに共通点を見いだして、それぞれまとめるような分析が必要です」というコメントは、収集されたデータを、一から整理し直して、提示の仕方の再検討を求めている。ちょこちょこっと手直しするくらいではどうにもならなさそうである。この活動をやること自体に、その学生の能力の向上に対する期待を込めている。


ここまでが教員の限界なのだ。これ以上のこと~例えば、データを1つ1つ吟味して、このデータはこういう現象として解釈できるのでは? などとやってしまうこと~は「答えを与える」ことになり、学生のためにはならない(そもそも新しい研究なので「答え」が分かるわけがない)。


本当に難しい。言い過ぎると、「手取り足取りやっている」みたいになって、下手すると、僕のアイデアと結論を、学生が代筆したみたいになる。これはもう、本末転倒。言わなさすぎると、学生が森に迷い込んだまま出てこられなくなる。だから、いい感じのバランスで、「ほら、あそこにうっすら光が見えるかもしれないね。あっちの方に行ってみるのはどうかな?」みたいな言い方を心がけることになる。


続く

【本日のイラスト】

darazさんから。この絵、好き。うしろのアリクイさん?? はなにをしてはるのでしょう??

ドキドキ。


【今日の一曲】

Phoebe Bridgers の無観客ライブ。めちゃくちゃいい。語彙が貧困。でも、そうしか言えない。めちゃくちゃ、いい。


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