【春休み世界史講座#004】連合規約の問題点
*前回https://note.com/akshs/n/n54694c034495からの続きです。
連合規約の問題点
先生:stateが何か分かってきたところで、次の話に進みましょう。年表で確認します。
・1775年:レキシントン=コンコードの戦い
・1775年:第二回大陸会議
・1776年7月4日:アメリカ独立宣言
・1777年:サラトガの戦い、アメリカ連合規約制定
セカコ:次に出てくる、(12)アメリカ連合規約とは何ですか?あまり聞かない単語です。
先生:1777年、縁起の良さそうな年号ですね、ペンシルヴェニア州フィラデルフィアの大陸会議は憲法にあたるアメリカ連合規約を採択しました。ここで、13植民地は連合してアメリカ合衆国の成立を宣言します。引用してみましょう。
セカコ:“The United States of America.”という名前がここで決まったんですね。第二条は、すごいことが書いてありますね。Each state retains its sovereigntyは、The United States of Americaを真っ向から否定するような文言です。
先生:全部で13条あるんですが、連合規約は全体として、各州、というより各邦としましょう、その各邦の政府が徴税権や通商規制権利、軍隊保持権をもっており、中央政府にあたる連合議会の決定は各邦への勧告にとどまっていました。
セカコ:Each state retains its sovereigntyっていうんですから、そりゃあ、そうでしょうね。これだと、“The United States of America.”は、国際連合やEUみたいな組織になってしまいます。
先生:その通りですね。確かに、国際連合やEUみたいな組織です。このため独立戦争で軍需物資の不足や経済統制の不十分など、様々な困難に直面することになったのです。
セカコ:よくそれで勝てましたね。
先生:このまま推移すれば、負けたでしょうね。
セカコ:勝つにはどうしたら良いんだ。
先生;セカコさんならどうしますか。この難局をのりきるには。
セカコ:ワシントンに強力な権限を与えて、各邦のわがままを制限してでも、国民の力を結集して戦います!・・・何かクロムウェルやロベスピエールみたいになってきました。彼らの気持ちが少し分かった気がします。でも、現状で13のステートの主権意識が強い以上、今いった解決策は無理そうです。
先生:そうですね。
セカコ:どうしたら良いんでしょう?どうするワシントン?
先生:どうする家康?どうするフランクリン?
セカコ:フランクリン?あ、わかりました!答えは、フランスを連れてきた、です。
先生:正解です。正確にいうと、(13)フランクリンらは、こう考えたんです。この戦争を、アメリカ独立戦争という、アメリカ植民地とグレートブリテン本国の戦争ではなく、フランスとグレートブリテンの戦争に変えてしまおう、と。そのために、フランスと同盟を組む、という戦略です。フランクリンは、フランスに渡ります。
セカコ:壮大な戦略ですけど、実現する見込みがあったんですか。まあ、実現したわけですけど。
先生:当然、見込みはありました。これまでの世界史の復習です。17世紀末から、イングランドとフランスはどんな関係にありましたか。
セカコ:第二次英仏百年戦争!
先生:そうです。今一度、流れを復習します。
セカコの世界史マイノート 第二次英仏百年戦争
第一ラウンド
1689-1697年
ファルツ継承戦争
第二ラウンド
1701-1713年
スペイン継承戦争
第三ラウンド
1740-1748年
オーストリア継承戦争
第四ラウンド
1756-1763年
七年戦争
セカコ:つまり、アメリカ植民地とグレートブリテン本国の戦争ではなく、フランスとグレートブリテンの第二次英仏百年戦争の第五ラウンドに持っていこうということですね。
先生:その通りです。第四ラウンドの七年戦争でフランスは敗北し、多くの植民地を失った。そしてフランスではルイ15世が亡くなり、フランスの改革や勢力拡大に燃える若きルイ16世が即位していた。フランス政府はグレートブリテンへの逆襲の機会を狙っていた。
セカコ:オーストリア、ハプスブルク家のマリア=テレジアの末娘、マリー=アントワネットが嫁いだ相手がルイ16世ですよね。アメリカ独立戦争、面白くなってきました。
先生:フランクリンがフランスに援助を求めに向かいますが、フランス側も最初は慎重でした。アメリカ植民地側に勝ち目があるのか、疑っていたんですね。それを変えたのが、1777年、(14)サラトガの戦いでの勝利です。
セカコ:戦闘で勝って見せたわけですね。年号は、ラッキーセブンだ。
先生:七年戦争の挽回をねらうフランス王ルイ16世と財務総監ネッケルは、1777年のサラトガの戦いで植民地側が勝ったことから参戦を決断、翌1778年アメリカ側に立って参戦しました。
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