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光と影のあるトシちゃん

トシちゃんの魅力を、いろいろな角度から分析しようとしてきたけれど、いまだに言い尽くせないことが嬉しい。いつもハッピーなトシちゃんだが、そこはかとなく、「影」が見え隠れする。そこもまた、大きな魅力だ。(本文タイトルを、後から修正しました。また、文章後半、2023年度ライブのネタバレが少しだけあります。)

最初にトシちゃんに惹かれたきっかけは、金八先生の沢村くんの演技である。姉に育てられている孤独な青年が、美術教師に一途な恋をする設定は、トシちゃんにピッタリ。黙っていても「影」が映し出されるような目が、苦悩する複雑な内面を、自然に表現していたと思う。

その後、歌手デビューしてみると、育ちのいい王子様のようでいて、品のいい突っ張りのようなイメージもあった。例えるなら、「キャンディキャンディ」に出てくるアンソニーとテリィの両方を兼ね備えたような感じ?アンソニーだけだと、ちょっと物足りないところ、テリィっぽさも出してきて、その魅力に翻弄されることとなった。

お父さまがご存命だったら、トシちゃんは、普通に大学へ行って、父親と同じ小学校教師になっていたかもしれない。(ラジオか何かの折に、自分でもそう話していた。)小学校で給食費が無くなった時、疑われて悔しかったエピソードをどこかで読んだ。自分の力で何とか人生をひっくり返そうと考えた裏には、数々の理不尽な経験があったことだろう。そんなところからくるのかもしれない「影」が、デビュー当時のトシちゃんの深い目に映っているように感じた。

今も真っ直ぐに芸の道を歩んでいるトシちゃんだけれど、独立後、数々の裏切りにあったことだろう。「裏切られることは、手を握った瞬間から承知している」と、インタビューで答えた内容が、『田原俊彦論』(岡野誠著・青弓社・2018年)にあった。トシちゃんを見るといつも感動してしまうのは、ふとした拍子に、人間らしい孤独な「影」が、その目に映り込むからなのではないだろうか。(ちなみに、岡野誠氏が書いてくださった分厚い書物のおかげで、トシちゃんの世に与える印象が随分変わったと思います。本当に感謝です!まだ読んでいないファミリーの方は、是非ご一読ください。)

演技をする際、明るいキャラクターになり切っていても、なぜか、切なさを感じさせる。ライブで、元気に歌って踊っていても、ふと、胸が締めつけられる。それは、チャップリンの喜劇映画を観た時の感情に似ているような気がするのは、私だけだろうか。「人生は、クローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇」と、チャップリンは言った。どこか自分を俯瞰して見ているトシちゃんの佇まいが、人生の深みを映し出すのだろうか。

「ユーモアの中には常に苦痛が隠されている。それだからこそユーモアの中にはまた共感というものがある。」とは、キルケゴールの言葉だ。いつもふざけたり茶化したり、ユーモアを忘れないスターは、苦痛を隠しているのかもしれない。そして、観客の共感を得る。トシちゃんの笑顔は、明るさや強さを示す「光」と寂しさや悲しみを示す「影」を、同時に感じさせ、人々を巻き込んでいる。

小林秀雄は、アンリ・ゲオンの言葉を引用し、モーツァルトの交響曲第40番ト短調を「疾走する悲しみ」と評した。トシちゃんは常に、悲しみに浸ったり、同情を買おうとしたり、感傷的になったりするのではなく、明るい方へ明るい方へと進み続ける。だから、その思想が映し出される肉体表現自体に、「疾走する悲しみ」が宿るのではないだろうか。華々しい「光」に隠された「影」が、芸に厚みを与えていると思う。

今年度ライブの終盤、明石公演での拡散祭りの楽曲は、「哀愁diary」だった。ファミリーによる、カップリング曲人気投票第1位だったこの曲。歌が始まる直前、後ろ向きの背中が、何かを訴えている。最初の「走り去る君の肩」のところで、グッと歌の世界へ引き込む。伴奏もコーラスも、切なさを盛り上げる。心を込め、全身を使って、絞り出すような声で奏でられていく。ラスト、「恋はファニーパラダイス」のかすれてゆくロングトーンが、深い余韻を残す。命を懸けて歌っているかのようなバラードでは、トシちゃんの「影」が、ありのまま美しく表現される。拡散祭りの動画を、いきなり何十回も続けて観てしまった。こんなことは、トシちゃん以外ではありえないことだ。(XやYouTubeにあげてくださるファミリーの方々には、心から感謝しています!)

かつて、ファンによる全ての楽曲の人気投票で、第1位は「悲しみ2ヤング」だった。「ジュリエットへの手紙」「Cordially」など、ライブでよく歌われる人気曲には、色濃く「影」の映る作品が多いことに気づく。また、楽曲のタイトルや歌詞に「哀愁」や「悲しみ」いう言葉が多用されているように思う(特に初期)。表で笑って裏で泣くイメージを、歌詞や曲調で表現している「ピエロ」も、トシちゃんらしい魅力を表現している楽曲だ。ピエロに徹しようとしているトシちゃん自身とこの楽曲を重ね、歌っていた当時、胸を痛めた記憶がある。

最近になって、トシちゃんの10周年にあたる1990年のライブツアーを観ることができた。ジャニーズ事務所が最大限お金を掛けたと思われるゴージャスなセット、派手でバブリーな衣装、集められた外国人の実力派ダンサー、若きトシちゃんの自信に満ち溢れたパフォーマンス、少しハスキーで伸びのいい歌声、ド級のセクシーを演出する身体の動きなどなど、間違いなくビッグなステージだった。「影」を感じさせず、力強い生命力に満ち溢れていた。今と変わらないチャーミングさもあったけれど、何だか私には、まぶし過ぎた。

当時ももちろん、かっこいいの極みで、素敵なのは確かだが、今のステージの方が、さらに魅力的だと思う。私は、トシちゃんの明るさ・楽しさ・カッコよさと同時に、悲しさ・切なさ・情けなさも愛しているのだ。トシちゃんほど振幅が激しくはないにしても、人生というものは、誰にとっても表裏一体。禍福は糾える縄の如し。だからなのか、トシちゃんの「光」と「影」にやられてしまう。トシちゃんにどこまで自覚があるのかは謎だが、長く歌って踊っているうちに、いつからか、人生の悲哀を表現できる術を得て、多くの人々の心をつかむようになったのだろう。

既に今まで触れてきてしまったので、避けずに語ろうと思う。ジャニー喜多川に対して、私たちは既に、犯罪者と認識しているが、トシちゃんはどうだろうか。空に向かって「反省しろ!」と言った言葉も、「何も無い田原俊彦は、ジャニーさんからエンタメの全てを教わった。」という言葉も、どちらも真実。簡単に整理できることではないだろう。清濁あわせのむトシちゃんの歌が、これからも、ますます深みを帯びて、私たちの心を動かすことは間違いない。

トシちゃんの「影」は、独特だ。下手をすると、あざとく表現されかねない悲しみが、いつも、そこはかとなく漂ってくる。また、悲しみを味わいながらも、決して希望を失わない健気さがある。それは、高い志があってこそ生まれる芸術的価値と言っても過言ではない。今のような美しい「光」と「影」を、ずっと持ち続けて欲しい。

「光」が明るく見えれば見えるほどに、「影」はより一層、強く印象に残る。2023年10月29日の大きな満月・ハンターズムーンの中に映った、際立つ陰影を見ながら考えた。

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