【エッセイ】美しい生活

 今朝は予定していたよりもずっと早く目が覚めたので、体調を崩した少し前から溜まっていた家事を済ませた。対話する相手もなく一人で暮らしていると、自分なりに自分のことを考えなければならなくなる。そうして、私は美しい生活というものの維持が苦手であると気付いた。掃除も片付けも洗い物も、どれも美しい生活(言い換えれば清潔な生活)には不可欠なものである。もちろんそれらを放棄しているわけではないが、しかしその日その日のすべきことを先延ばしにしてしまうのだ。結果、過去の自分の所業を呪うことになるのである。顔をしかめながら己を呪う家事というものは、どう見ても美しいものではない。この癖を直すことは難しいだろうと予感しながら、日々できる限りのことを、明日の自分のためにも済ませておこうと決意した朝であった。
 私は、できることなら美しい生き方をしたかった。ここで美しい生き方と言うとき、それが具体的に何を指すのかと問われたなら、おそらく答えに窮してしまうだろう。結局、それは無い物ねだりでしかないのだから具体像を描けないのである。そこで、仮に社会の中に身を置く一員としての私を想起してみると、社会的に成功したいとか、裕福な暮らしをしたいとか、パートナーを得て家庭て築きたいとか、そういう欲望がないわけではない。しかし、私の肌感覚として、それらを成し遂げることで美しい生き方ができるとは限らないと思う(金銭的な余裕は大事な条件ではあるだろう)。そう考えていくと、社会の中に身を置きながらいかに私らしい快適な生き方ができるか、ということになるだろうか。
 しかし、私は落伍者である。唐突なようであるが、それはどうにもならない現実なのである。だからこそ、美しい生き方をしたかったと述べたのである。どうして落伍者であるのか、ここでその内実に触れることは避けたい。簡潔に言えば、幼少期から満たされた経験がなく、望んだものを手に入れられなかったか手放してしまった、そういう人間なのである。では私に美しい生き方への道は全く閉ざされているのだろうか。私は、そうではないと思っている。ここで美しい生活というものに立ち戻る。美しい生活とは何だろうか。その日その日を大切に生きる生活であると、ここまで述べてきた私には感じられる。毎日がそのように上手くいくわけではもちろんない。けれども、流れゆく時間の中でもちっぽけな今日という一日を大切に生きていくこと、つまり美しい生活をすることが、いつか美しい生き方という道へと通じているのではないか。私はささやかなる希望を持ちながら、今日を生きている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?