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その国のはなし

その国ではだれもが「あなたの命はいつだって私の命より大事」と告げあう。


親子とか、恋人同士とか、友人相手だけのことではない。

買い物に寄ったスーパーマーケットの客と店員、初めて顔合わせをした取り引き相手同士、新刊を出したばかりの小説家のサイン会の列に並んだファンと作家(当然列に並ぶ人たち同士も)、そして病院の診察室のなかでの医者と患者も。

その人が自分の視界に入り、相手の視界にも自分が存在してしまったことを察すると、ひとびとは半ば反射的に「あなたの命はいつだって私の命より大事」と告げずにはいられなくなる。

ほんの数百年前まではそんなことはなかったらしい。

ひとびとはいつだって自分こそが大事だし、ましてや自分の命というものは何においても守らねばならないものだったという。

そんな時代が随分長らく続いた。

いくつもの戦争があったという。
呆れるくらいのたくさんの戦争があったと。
戦争ではいつも誰の命もこともなげに失われていった。誰の悲しみも誰の恐怖も世界を変えることはなかった。

そのうち、その国のひとびとは芯から自分たちの愚かさにうんざりしてしまった。どんなに強い人も、どんなにお金持ちの人も、どんなに賢い人も、この世から戦争をなくすことは出来ないことにやがて気づいていった。

ひとびとはやがて、外側に原因をさがすことに飽いていった。誰からともなく問いを外に発することを止めていった。

一番はじめは小さな子どもからだった。

「ねぇ、こたえはわたしのなかにあったよ」

どこにでもいるふつうの子ども達が、自分のなかで自分に問いかけてこたえを見つけ出すことをはじめた。

長い戦いに明け暮れた大人達は自分のことで手一杯で、その頃には自分の子どものことにも構えなくなっていた。だれも彼もが子どもに好きにやらせていた。

自分の子ども達が平和そうに過ごしていることにやがて大人も気づきはじめた。
子どものなかで争いごとが起こらなくなっていたのだ。
そんなことは自分達の知る限り、有史以来のことだった。

あまりに静かな変化で、大人達は随分と経ってからそのことに気づいた。

自分達の見ている世界と子ども達の世界は色合いがまったく違う。
自分達の傍らで過ごす子どもの話す言葉もまったく違う。
うちの子はどうしてこんなに私や周りの人を大切そうに見つめるのだろう。さわる物をいちいち大切そうに扱うのだろう。それでいてどうして何にも執着しないのだろう…?

たくさんの家で、親や祖父母たちは考えこんだ。

たくさんの学校で、先生たちも考えこんだ。

そんな時代が静かにその国にやってきて、それは静かに浸透していった。

誰もその違和感をうまく扱えなかった。

それは扱われるものでなく、静かに進行するものであったから。

見えないままに、気づかれないままに、そっと到来した何かだった。


やがてその国ではひとびとが「あなたの命はいつだって私の命よりも大事」という言葉をたがいの存在確認の合い言葉として告げあうようになったという。

それは「こんにちは」や「ありがとう」と同じくらいの頻度でひとびとの口にのぼる。

それを告げあったところで何か義理や義務のようなものが発生することは一切ない。

ひとびとは変わらず社会を作って生活している。

ただひとつ、その国はもう争うということを忘却してしまったらしい。


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