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日記:文明的ボトルウォーター

 お茶を飲みたい。

 できればコーヒーがよい。


 二度目のコロナ生活の四日目にしておれはひとつの問題に直面していた。それは「味のある飲用水がない」ということだ。部屋にあるのはボトル入りの南アルプスの天然水だけである。お茶を淹れるとは斯くも文明的な所作だったのか、と思い知らされる。


 だがその結論はいったん待つべきだ。

 文明的かどうかの切り口で考えてみれば、いま手元にあっておれが軽んじているボトル入りの水のほうが遥かに文明的なのではないか、ということに気づいてしまう。


 お茶の発見は遡ること紀元前2700年ごろで、当時は薬としてムシャムシャ食っていたらしい(お湯で飲みはじめたのは紀元前59年だとか)。水道水は紀元前2300年のローマの水道橋に端を発する。つまりお茶の存在よりも水道水のほうが味もしないのに後発でよほど文明的ということになる。
 日本は(稲作の灌漑を除いて)わざわざ引っ張ってこなくても川水や井戸水が豊かであったことから上水道を作ろうとしたのもだいぶ遅く、16世紀ごろからの話になる。

 ボトルウォーターに関しては当然さらに後になる。水筒自体は紀元前3000年あたりから動物の皮などで作られていたらしいが、「密閉して加熱し、清潔にものを保存する」という点では1804年にニコラ・アペールの発案で瓶詰めが誕生するのを待たなければならない。したがって「キレイな水を加熱消毒などを施してビンなどに詰めて売る」というビジネスもこれ以降の出来事となるだろう。

 ペットボトルの登場となるとさらに時は進み1970年代後半なので、おれがいま味がない味がないと言って不平不満を垂れている南アルプスの天然水は発明から50年しか経っていない技術の結晶である。
 文明的かどうかでいうとお茶を淹れるという行為より「ボトルに入った何かしらの飲み物を飲む」ということのほうがよほど文明的で人類の英知と技術が詰まっていることになる。

 おれはボトルウォーターというものをナメていたのかもしれない。厳に反省した。
 だが残念ながら文明の結晶であったところで水は水、飲んでも味はないのであった……。


 うーん、お茶を飲みたい…

 できればコーヒーがよい……。



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