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1900~1999

1月29日、今日は何の日。
いい肉の日
・・・今日は焼き肉。
言いにくいことを言う日。
それはそうも言えるけど、今日は99歳まで生きた義母を語りたい。

出会い

ワタシがいずれ義母となる人と初めて会ったのは50年以上も前になる。
当時北関東に住んでいた義母は連れ合いを亡くしていたが、兄夫婦と暮らしていた。
初めて挨拶に行った日、ツレの母は70歳をとっくに過ぎていたがその日は、七輪でトウモロコシを焼いていた。

曲がった背中、小さな体で動き回っていた。
近くに住んでいた家族や孫たちも来ていた。
なんと和やかな家族だろうとホッとしたものだった

ツレは母親が46歳の時に生まれていたので、70歳を超えたおばあちゃんになっていたのは致し方なく、ワタシにとっては姑や義母と言うよりは、「祖母」という感覚が強く、いつまでも最後まで甘えていたと思う。

製糸工場での青春

義母は若い頃、前橋の製糸工場で働いていた。
「野麦峠」
と同じ時代。
さぞ、過酷な少女時代を過ごしたのかと想像していたが、本人が言うには「頑張れば頑張っただけ給金がもらえたから頑張った。」
「辛くなかった」
「休みには友達と街に出て、帯や小物を買うのが楽しみだった」
そんなことを語ってくれたことがあった。
丈夫で働き者だったのだ。

ツレと一緒になってからは年に一度は同居の息子(ツレの兄)に連れてもらってこちらに遊びに来ていた。
田舎で質素に暮らしている義母にとって、少しだけ都会に近い所に住んでいる息子の家族との数日は新鮮だった様子。
ある時朝ご飯に「ししゃも」の焼いたのを出した時の話。
この魚はなんて言うんだい」
「ししゃもです」
「うんめえな~初めて食べたよ

こんなうめえ魚を食べたのは初めてだと、それはとても喜んでいた。何につけても感動し、喜ぶ人であった。

ツレは若い頃、ラグビーをやっていて、テレビ中継があると、息子と一緒に観戦した。
飽きることなく見ていて、どうなったら点が入るかとか、ルールも聞いていた。
知らないことは何でも覚えようとし、好奇心が強かった

ツレが仕事の日でいない日は、ワタシと一緒に公園などに出かけた。
その頃はだいぶ年を重ねていたので、手押し車を押して沿っていると、出会う人に「お孫さんといいですね」とすれ違う人に言われた。
二人で笑いながら「嫁ですよ」と言った。
孫と言われても致し方ない。なんせ、46歳で末っ子を産んだのだから。

亡くなる前年、白寿を向かえた義母を祝い息子、娘、孫、ひ孫その配偶者含め40人余り、温泉宿に集まった。
嫁と孫を間違えたり少しの物忘れはあったが、人格は保っていた。
孫18人、ひ孫は数えきれない。
皆で集まった最後の思い出の宴だった。

翌年(1999年)11月28日。
実家から義母の様子がおかしいので来てくれと言ってきた。
ツレはその日、友人と山芋掘りに出かけていたが、連絡すると大急ぎで帰宅。
車で向かった。

翌日の昼近く、ツレから「今しがた、旅立ったよ」との連絡が入った。
最後の様子を聞いた時、思わず涙が出た。

「わたしゃ、1900年生まれだっていうから、歳が数えやすいんだよ」と言っていた。
1999年、あと少しで100歳だった。

後日、実家をついでいる兄が「残念だったよ。あと何か月か生きていたら村から100万円お祝い金がもらえたんだよ」と笑って言った。

今は人生100年時代。100歳まで生きるのも当たり前の時代になった。
今は、100歳のお祝い金は出ないと聞いた。

昨夜はツレと娘と思い出話に盛り上がった。
したたかに呑んだ日本酒で、書きかけの「note」を放って寝てしまった。

尊敬できる優しい人だったんよ。















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