見出し画像

ラーメンズ第12回公演「ATOM」を中心とした笑いの方法論と公演全体に仕組まれた小林のたくらみに関する考察

目次
序論 問題意識と課題設定
第1章 笑いの理論
第1節|三大理論
第2節|ベルクソン、モリオールの理論
第3節|図式のズレとユーモア
第2章 ラーメンズらしい笑いとは
第1節|コントで積極的な観客をつくりだす
第2節|スタンダードな嘘の世界
第3章|コントの構造分析
第1節|状況設定
第2節|非日常の中の日常を観客に受容させる方法
第3節|公演における構造
終章|おわりに

序論 問題意識と課題設定

本研究の目的は、ラーメンズのコント分析を通じて、劇作家・演出家・パフォーミングアーティストとして幅広く活動する小林賢太郎のつくりだす笑いのトリックや、その独自性を探ることである。

ラーメンズの「完成度の高い」 コントはこれまでにも笑いの方法論に着目した分析や、彼らのコントを作品の分類分けを行い、笑い発生のパターンを分析した先行研究が存在する。しかし、小林賢太郎がコントや演劇を作る上での芸術観や演劇観を踏まえた研究はいまだ存在しない。
喜劇の手法を分析している喜志によると、喜劇は観客によって受容されて初めて喜劇として完成されるものであり、劇作家は観客による需要を意識しながら作品を書く必要がある。また、彼は、劇とはこの世界で生きている人間を扱うものなのだから劇作家がどんな手法を用いて作品を書いたのかという問題を検討するためには、その劇作家が世界や人間をどのように捉えていたかを知らねば、演劇そのものについてどう考えていたかを理解せねばならないと主張している 。
本研究では、小林賢太郎作品における笑いの手法を、小林賢太郎の世界観・演劇観を踏まえた上で「常識という概念に縛られない、想像の斜め上をいく独自の世界観」 がどのように生み出されるのかを明確にしていく。

本研究は、文献研究で行う。まず、笑いの手法を明らかにするために、ユーモア学の笑いの理論についての先行研究を用いる。まず、笑いの三大理論である優越の理論、ズレの理論、放出の理論について簡単に紹介し、次にアンリ・ベルクソンおよびジョン・モリオールの理論について紹介する。そして、森下が提唱する「図式からのズレ」と「ユーモラスな笑い」についてまとめる。
最後に、小林賢太郎の生み出す作品の独自性を明らかにするため、ラーメンズ本公演「ATOM」のコントを個別に分析していく。既存の笑いの理論および漫才やコントの研究をおこなっている井山弘幸による作品分析、ならびに喜志哲雄の『喜劇の手法』、小林の著作を参考に、一つのコントにどのような手法が重層的に用いられているかを、まず笑いの要素ごとに分類した上で分析し、各要素の項目にて適宜同じコントを題材として使用することで明らかにしていく。その際、笑いの手法だけでなく、小林の著作『僕がコントや演劇のために考えていること』をはじめ、小林が出演するテレビや雑誌の対談での発言をもとに、作家小林がもつ世界観・芸術観・演劇観を明らかにしていく。

第2章 笑いの理論

本章では、笑いの三大理論である優越の理論、ズレの理論、放出の理論について参考にし、次にアンリ・ベルクソンおよびジョン・モリオールの理論について紹介する。最後に森下が提唱する「図式からのズレ」と「ユーモラスな笑い」について参照する。

第1節 三大理論

井田は、笑いの三大理論として優越理論、ズレの理論、放出理論を挙げ、それぞれ笑いの側面に着目した分類を行なっている。優越理論が感情的・情緒的側面における笑いであるに対し、ズレの理論は認知的・思考的側面における笑いとし、放出理論における笑いは、感情的あるいは精神的な余剰エネルギーの発散であるとした 。

まず、優越理論では、笑いは他人に対する優越感の表現だとする。この説の有力な提唱者は、トマス・ホッブズだ。

また、ズレの理論では、笑いは理性と直感との不一致から生じるものとした 。この説の有力な提唱者はショーペンハウアーやカントが含まれる。ショーペンハウアーは、笑いの快感とは理性の抑圧から生が解放される快感であり、理性に対する生の凱歌であると主張する 。

最後に、放出理論では、笑いは神経エネルギーの発散であるとする。笑いという現象を生物学的な立場から説明しようとしたハーバート・スペンサーは、神経システム上の緊張は神経エネルギーとなって感情や思考を引き起こしたり、運動神経に作用して筋肉の収縮を起こしたり、内臓関係の神経システムに影響を及ぼすとしている。笑いとは何らかの必要性を失った結果、余剰となった神経エネルギーが普段から感情の影響を強く受けている筋肉、すなわち呼吸器官や発声器官を刺激し、発散されるために生じる と主張する。

第2節 ベルグソン、モリオールの理論

 ベルグソンは『笑い』において、笑いを包括的に説明しうるただ一つの理論ではなく、顔などの形、運動や所作、性格などの各条件のもとで滑稽な効果を生み出す法則を順次取り出すことによって笑いの全体像を明らかにしようとした。佐金・武は、ベルグソンの考察について、笑いについての彼の真の独創性は、何か特定の理論的体系化にあるのではなくて、そのアプローチにあると指摘する。ベルグソンは、人間的な生と機械的な対置をモチーフとする 。
ベルグソンは所作および状況のおかしみにおいて、滑稽とは「生の錯覚と機械的しくみの明瞭な感覚とを、この二つがたがいに挿し合わされたものとして我々に与える動作なり事件なりの配列」 であるという法則を提示する。

また、彼は、操り人形、びっくり箱、雪達磨という三つの子供の遊戯から滑稽な効果の純粋な要素を取り出した 。それが繰り返し、ひっくり返し、交叉の三つである。

繰り返しとは、一つの状況が型となって再三再四起こることであり、ひっくり返しとは、たとえば一定の情況の中にある若干の人物の役割が劇の前半と後半で入れ替わるようなことをいう。そして、ベルクソンは交叉について次のように定義する。「或る情況が全然相独立している事件の二系列に同時に属しており、そしてそれが同時に全然異なった二つの意味に解釈できるとき、その情況は常に滑稽である」

ジョン・モリオールは、「笑いは愉快な心理的転位から生じる」という理論を提唱した 。彼は、ユーモアの本質はズレ、つまり概念的転位を楽しむことにあるとし、突然のものではない変化は笑いを生まないであろうと考えた。言語に生じるズレにおいて、「言葉の遊戯」と「概念の遊戯」とに区別している。言葉の遊戯は、3つに分類されている。ひとつめは、「言葉の意味からきり離された、たんなる話し言葉の音や文字言語の形状」である。言い間違いや方言、音節を入れる言葉遊びなどがこれにあたる。二つ目は「統辞法の規則の撹乱」である。三つ目は「言葉の意味をある程度含みながらも言語の音声学的なメカニズムや印刷技術上のメカニズムに依拠するユーモア」である。同音異義語や駄洒落、両義的文章などがこれにあたる 。
観念の遊戯では、「語られる事柄に生じるズレ、言語がそれを伝達するためにもちいられるメッセージ内容に生じるズレ」を基礎にしている。たとえば、普通は似たものとして考えることのない二つのものを対比し、何らかの意味で本質的な特性あるいは特徴、つまり予期されざる類似性を取り出すことで生じるユーモアがある。他にも、論理原則への違背にもとづく ユーモア、語用論的規則への違背にもとづくユーモアが挙げられている 。

第3節 図式のズレとユーモア

 森下は、『ユーモア学入門』**で、「知性レベルで生じる笑い」 **を論じている。彼は、知性レベルでの笑いを、「知性の満足から生じる快笑系の笑いのもの」と「知性の撹乱から生じる苦笑系のもの」の2系統があると整理している。それぞれを「やっぱりそうか」の笑い、「ええっ、どういうこと?」の笑いと呼ぶ。加えて、「やっぱりそうか」の笑い、「ええっ、どういうこと?」の笑いが結びついた笑いを「なあるほど」の笑いとする。

 まず、「やっぱりそうか」の笑いとは、図式どおりに現実が進行することによって知性の満足から生まれる笑いである。ここでいう図式とは、人間が知性に蓄積する「〇〇はこれこれこういうもの」(森下曰く、〇〇の部分は、カボチャでも、時計でも、山でも、パソコンでも、愛でも、人生でも、政治でも、神でも、なんでもいい)という、漠然とした知識あるいは図式である。森下は、われわれはそのような図式をいくつか組み合わせることによって、推論や予測を立て、そのとおりになることを期待し、そして実際にそうなったとき、「やっぱりそうか」と知性の満足を感じると論じる。ただし、あまりに推論や予測が容易すぎるときには、知性はそれだけの働きをしていないから、報酬はわずかにとどまるという 。

 つぎに、「ええっ、どういうこと?」の笑いとは、図式のズレからやってくる、知性の撹乱から来る逆説的な笑いである。常識的図式をくつがえし、それから大きくはずれた姿を認知したときに、ある種の新鮮な愉快さを感じる逆説的な愉快さを感じる。森下は、この図式のズレから生じるこの逆説的な愉快さこそ、ユーモアの本体ほかならないと主張する 。

 最後に、「なあるほど」の笑いは、現実と図式からのズレによって知性がひとたび撹乱されたのち、最後にそれが図式の中に再度おさめられることによって生じる知的安心感が、それぞれ愉快感と笑いのもとになって生じる笑いである 。

第3章 ラーメンズらしい笑いとは

ラーメンズらしさといえば、小道具なし、セットなし、衣装替えなし、BGMなし、特殊効果なし。体2つでよくやったって言われたいのがまずラーメンズのそのものの企画書であると小林は言う。それができてはじめて小道具とかセットとか使う権利があるのでないかと考え、枷を作ってラーメンズははじまったと。

小林はラーメンズのコントでは、舞台上で人間がコミュニケーションしているところを見せて、笑うなり、感動するなりで、お客さんが反応する最小単位を作ろうとした。ラーメンズのコントをカバーすれば、あらゆるコントの形を得られるという。書道では、楷書の「永」という字に、止めもハネも払いも全部入っている。あの一文字が上手く書けると書道が上手いということ。ラーメンズはそこを目指した 。コントの教科書のようなラーメンズの要素を分析していく。

第1節 情報不足のコントで積極的な観客をつくりだす

『ATOM』の一本目のコント「上下関係」は、黒い舞台にラーメンズの二人がスッと立っているシーンから始まる。幕が開いて二人が立った状態で現れる構図は、第17回公演『TOWER』 の冒頭にも使われる。『TOWER』においてのこの演出について小林は、「このふたりがラーメンズです」ということを伝え、ラーメンズに対する先入観や知識などのばらつきを最初の1分間で狭めたかったのだという 。小林にとって劇場は観客とのコミュニケーションの場 でもあり、応接間である 。お客さんをもてなすのが僕たちの仕事 と言い切る小林は、舞台に訪れた観客に楽しんでもらえるよう細かな演出を施す。

演じる目的は「だます」のでなく「楽しませる」、観客の目的は「タネを見破る」でなく「不思議を楽しむ」ことである という小林は、観客に楽しんでもらうために、徹底した情報操作を行っていると考えられる。

まずは徹底したミニマムなパフォーマンス。セリフを極限まで削り、小道具、大道具も無くてはいいものは使わない。「観客から思考を借りられるポイントだけは、きっちり余白を作っておいてあげるということ」 を意識して作品を作っていると小林自身は述べているように、台詞は一文字でも少なく、ものを使わず言葉やパントマイムで表現することを徹底している。
観客の想像力に委ねることや、ある程度コントの世界のフォーカスをぼかすことは、ラーメンズをすごく好きな人、初見の人、興味ない人、知らない人、二度目のお客さんなど、色々な立場の観客を楽しませるためであると小林は言う 。
 情報をミニマムにする結果として強制的にイメージする力を使われた観客は頭が積極的になると述べている。小林は「これ(頭が積極的になった状態)は笑いや感動を導くのにとてもいい状態」という 。小林が「情報を制限して観客のパーソナルに入り込む」 という意図でセリフも極限まで削り、小道具も衣装も使わないのは一種の錯覚を利用しているのでないかと考えられる。藤倉は、パントマイムにおける模写的表現が、観客の脳に補完を喚起し「現実を再構築」させる芸術であると主張したうえで、イメージの構築は各々の観客がその想像過程に積極的に参加することにより達成されるものだと指摘する 。彼は、観客の脳は積極的にその過程に参加することによって、その創作物をより現実的な身近な経験として共有することになるという 。つまり、余白を残すことで、場面場面に観客の生活、常識、こうなるであろう、こうであろうという一定の図式が出来上がる。

そのほかにも小林は観客に提示する情報制限だけでなく、作家である自分自身にも制限をかけ作品を作る。その意図については「なぜ小林賢太郎はラーメンズで情報不足のコントをつくったのか。小道具、セット、衣装替え、BGM、特殊効果もないアナログな世界で観客はなぜ笑うのか」という記事にまとめているため、参照いただきたい。

「アトム」 という作品では、物語の前半では、久々の再会を果たした親子(片桐が父親、小林が息子)の姿を演じる。しかし、物語が進行していくにつれ、実は親子は親子でも、冷凍保存されていた父親(片桐)は、30年たった21世紀に息子(小林)によって目を覚まし、対面しているというSF系シュールな状況であることが判明する。井田は、通常、何も情報がない状態からコントの世界を理解するために、観客は台詞や動作からそのキャラクターのイメージを固定化しようと努めると述べる 。このコントでは。観客が作り上げた、「久々の再会を果たした親子」という観客の予想を破壊するものであり、観客に提示する情報量を少なくし、会話から想像させることで、設定の逸脱ぶりが強調されるのである。
観客がある情報を既にもっていることを前提として、観客の反応をもて遊ぶコントがある。「新噺」では、落語の基本構造をふまえてはいるがマクラがどこまでか、話し手が何人いるのかもわからなくなっていく混乱を誘う演出となっている。そもそも落語の基本構造とはなにか。

広辞苑によると、落語とは「身振り入りの仕方噺から発達して芸能化し、江戸大阪を中心に興隆した、おとぎばなし。軽口ばなし。はなし。のこと」とある。つまり、**落語のルーツは話芸というより、マイムや身振りを下地にしたパフォーマンスである **。とはいえ、「落ち」または「サゲ」こそが落語のいのちである。古来、「落としばなし」の定義として<一オチ、二舌、三仕形>という言葉もある。これは落語の演出についての言葉である。落語を面白く演じる条件として、まず一番にサゲ、そして演者の弁舌が二で、三に仕方、身振りだとする 。すなわち結末の部分がいちばんポイントになり、聞き手を現実の世界に呼び戻す効果がある 。
 サゲを大別すると、十一種類になるとされる。

一席の基本構造は「マクラ」「本題」「オチ(サゲ)」からなる。「マクラ」は、本題への導入部だが、必ずしも本題のテーマや登場人物の噺に限らず、身の回りのことや社会ネタなどでお客の関心を引き寄せる役目を果たして、ごく自然に本題に入るための流れをつくるのが噺家の腕とされる。なお、マクラは「喋る」のではなく、噺家は「マクラを振る」という。
 「本題」は文字通り噺の本編をいう。そして「オチ(サゲ)」で噺を締める。ただし、オチのない「人情噺」では「~という一席でございます」などの言葉で締める 。
落語は耳から聴くだけの芸ではなく、目で見て楽しむ芸でもある。座布団に座ったままで、顔の表情や上半身の仕草で登場人物の特徴はもちろん、その行動や心理も表現する。仕草の助けになるのはたった一本の扇子と手拭い。あるときは扇子が煙管に、筆に、刀にと早変わり。手拭いは財布になったり本になったりと、この必要最小限の二つの小道具を駆使して、落語が演じられる 。

 落語を面白く演じる条件として、まず一番にサゲがあり、サゲによって観客は現実世界に呼び戻されると述べた。しかし、コント「新噺」では、落語の基本構造、ルールそのものにツッコミがなされる。コントの冒頭小林が上手から登場し、マクラを語りはじめるが「......と、こうやって本ネタの前に話す部分をマクラってんだ」というように弟子に対して落語の型について教えている姿が表れてくる。その後片桐が登場し、上下をきって複数人を演じることに対し「一人じゃん!」、扇子と手ぬぐいをネタ帳に見立てるのに対し「扇子じゃん!」「手ぬぐいじゃん!」とツッコミがなされ、観客はそのたびに現実世界に呼び戻される。このとき、落語の型と現実世界の二世界を対照している。

 このコントでも情況の繰り返しがなされる。前半は小林に対して片桐がツッコミを入れる立場であるが、後半は片桐に対して小林がツッコむ立場に変わる。ラーメンズのコントは前半は観客に「このようなルールでやりますよ」ということを観客に説明し、後半にそのルールに則った逸脱が起こっていくものが多い。終盤は片桐が話の流れに必要ないうどんをすするパントマイムがなされたり、小林が扇子を人物に見立て腹話術を行うなど、観客の意識を落語の型に集中させつつも、ふいに落語ではない演出へと意識をスライドさせる。そうすることによって、観客の頭のなかで突然認識の変化、つまり認識のズレが生じ、笑いを引き起こすのである。また、終盤は「一人じゃん!」などといったツッコミの間隔が短くなり、テンポよく展開することで、漫才でいうところの「かぶせ」と同じ効果が期待できる。
 コントのオチは「おあと」と「尾跡(おあと)」をかけた地口落ちとなり、コント全体の構成は「マクラ」「本題」「オチ(サゲ)」という落語の一席の基本構造になっている。落語の図式からズレによって知性が攪乱された観客は、最後に落語らしいオチによって、落語の図式の中に再度おさめられることによって生じる知的安心感が、それぞれ愉快感と笑いのもとになって笑いが生じる。

第2節 スタンダードな嘘の世界

小林の考え抜かれた作品は、すべて身近な言葉や道具で表現されている。「わかる道具でやらないと意味がない」とは、彼の手掛けるすべての作品に通じて言えることである 。

小林は自身の作品は商品だという。作品と商品のバランスを常に考えており、観客が来て笑ってそこで完成する、次もお金を払ってまできたいと思わせるため一定の基準をクリアする必要があると考えている 。「作品のためにできることはすべてする」。これは事ある事に小林が言っている言葉だ。決して作品作りには手を抜かない、そのストイックさは並大抵ではない 。ラーメンズの基本はアナログである。その理由は、小林の強い信念により確立されたスタイルだ。
アナログにこだわる理由は、作品が古くならないようにするためである。小林には、持続力のある作品でありたいと思いがある。新しいものは古くなっていくが、古いものはすでに古いから、そんなに変わらない。スタンダードになるものは、スタンダードになるだけの実力を持ち合わせている という考えが基盤となっているのだ。それゆえに小林は、人間が普段営んでいる生活を切り取り、それを笑いにまで昇華させる 。

「アトムより」というコントでは、言葉遊びが顕著だ。

小林「なんで『大マンモス展』なんだよ」
片桐「ロマンだろわいよ」
小林「ロマン?」
片桐「だって『大マンモス展』のすよ。ただの“マンモス”でもデカいのに、それが“大マンモス”となると、とんでもないことになるだろわいよー」
小林「……“大”っていうのはその展覧会の規模のことじゃないのか?」
片桐「そうのすか?もしそうだとしたら“マンモス大展”になるわいよ」
小林「でも“マンモス大展”だと、マンモスクラスにでかい、マンモス大の“何か”の展覧会、って感じじゃない?」
片桐「何かってなろわいよ。折り紙のすか」
小林「それは絶対に違うと思うけど」
片桐「どうして分かるのすか」
小林「チケットにマンモスの絵が描いてあるから」
片桐「じゃあやっぱり“大マンモス”が展示してあろわいよ」
小林「だからそれは違うと思うって言ってるだろ?」
片桐、チケットを持つ手が震える。
片桐「あいまいな表現で惑わせやがったのすうううう。ジャロに電話するのす!」

この会話の中には「大マンモス展」の意味解釈が2つ存在する。小林は「展覧会」が「大」と主張し、片桐は「マンモス」が「大」であると主張する。

一般的には、解釈Aが自然だと思われるが、解釈Bも「大マンモス」という種(あるいは区別)が存在する状況下では自然な表現になる 。問題は、片桐が解釈Aの場合は「マンモス大展」という順番にならなければならないという主張をしていることだ。このコント内で片桐の言語ルールは、「大」は常に修飾する要素のすぐ左側になければいけないというものだ。この言語ルールは、上記の会話に続くやりとりにも適応される。

片桐「(略)…だって“大もちつき大会”のすよ。ただの“もちつき大会”ならまだしも“大もち”のすよ。つまり大キネと大ウスがあろわいよ。やっぱり味は大味のすかね。」
小林「あのさあ、その大っていうのも“もちつき大会”自体が大きいって意味の大なんじゃないのか」
片桐「それはないのす。だったら“もちつき大大会”になろわいよ」
小林「大大会って、大きいって字2回続いちゃってんじゃん」
片桐「だから“大もち”のす」
(中略)
片桐「でかいのすよー!“原さーん!本番まいりまーす!(巨大化ごっこ)”ヨロシクオネガイシマース!“ドーン!ドーン!プアーン!ガタン!ガタン!ガタン!ガ!新幹線バアン!」

大女優原節子は物理的に大きな原節子として舞台上に姿を現し、観客は片桐の独自の言語ルールに則った解釈を理解し、その逸脱を笑う。

第3章 コントの構造分析

本章では、情報操作という笑いの要素に注目する。井田は、笑いにおける情報操作の重要性をモリオールの滑稽さのテクニックについての一般原則への言及や、貴志の著書で情報操作の重要性を語っている点を示し、ラーメンズのコントにみられる情報操作の分析を行なっている。井田は、情報操作を「どのようにして観客の予期を誘導し、それを裏切るかということ」 と定義している。

演出家の平田は、「劇場はしょせん劇場で、演劇は『虚構=フィクション』でしかない」 と指摘する。そのうえで、虚構の世界である舞台上からリアルな世界を観客に感じ取ってもらうためには、「舞台上で『イメージの共有』が行われていければいけない」 と主張する。小林のいう「お客さんが勝手に笑う」おもしろさを生じさせるには、イメージの共有は必須である。

平田は、「世の中にはイメージも共有のしやすいものと、しにくいものがある」と述べる。彼女は普段のワークショップで、「架空のキャッチボール」と「架空の大縄跳び」を行い、イメージの共有しにくいものとしやすいものの違いを明らかにするという。まず、キャッチボールではイメージの共有は難しく、縄跳びでは共有がたやすい。理由は二点ある。第一に縄跳びはキャッチボールに比べて動きが単純であるため。変則的な動きが少ないので、イメージの共有がしやすい。第二に、経験に男女や地域差などがあまりないため。平田は「キャッチボールは、子供のころから親しんでいる男性のほうが、格段にイメージがつかみやすいのですが、縄跳びではそういう差異は見られません。」 と分析し、縄跳びが共有しやすいイメージなのは、「少なくとも日本人同士なら、ほとんど同じ経験を共有して」 いるからだという。
イメージを共有することにおいて重要なのは、動きのイメージの共有だけでなく、動きをする中での感情や記憶を演技する側も観ている側もすでに共有している点であると平田は強調する。「縄跳びに引っかかると『痛い』とか、笑われると『恥ずかしい』といった感情や記憶」のような経験が演者側の緊張感や喜びに現れる。その様子を見ている側にも伝わって、結果として「そこに本当にない縄でも見えるようになる」のだという。
 つまり、舞台の虚構を観客に見せるためには、「イメージの共有」と、そのための工夫、仕掛け、演出というものが必要となる。
演劇は、誰もが経験しているもの、ありきたりの動きをもつ「イメージの共有のしやすいもの」から、人間の感情のような、普段見ることのできない「イメージの共有のしにくいもの」にたどりつくプロセスでできていると平田はいう 。観客とのイメージの共有ができた時に、初めてリアルな世界が、観客の脳の中に立ち上がってくるのだ。

第1節 状況設定

ラーメンズのコントは「関係のわかりづらさ」 がある状態から始まるものが多い。舞台上の登場人物がどんな関係性なのか、舞台の環境がどこであるかは明示されず、日常風景が唐突に舞台上に現れた状態で示される。小林が「セリフはヒント集」 というように、セリフによって舞台上の二人の関係性、状況を観客のイメージによってつくられていく。いわば、観客は舞台上に自分で作った世界観を生み出す状態となる。
おもしろさの種類には、笑われるのと笑わせるのと、お客さんが勝手に笑うという3種類があると小林は言う 。「お客さんが勝手に笑う」笑いは、落語でいう考え落ちと似通る。考え落ちとは、観客が一瞬考えてから、そのおかしみに気がついてニヤリとさせられるオチである。

ラーメンズのコントは「日常の中の非日常でなく、非日常の日常」を描く。井山はラーメンズのコントを「シュール系コント」と分類した上で、シュール系コントの成立条件として、≪非現実の合理化≫が原則にあると述べる。笑いの仕掛けとしては、必要条件である「二つの世界の比較対称」を実現するため、観客の想像力のなかで世界形成をせねばならない。「二つの世界の比較対照」の例としては、「ボケ」と「ツッコミ」であったり、「シュール」と現実であったり、「事実の断片」(あるあるネタ)と「評釈」であったり、いずれにしても比較される何かを要件とする。

両者は観客や視聴者の視点から比較され、互いにリアリティーを得ようと競合する、という意味で、パラレルな関係を有している。シュールな世界の側から自らを対象化し、慣れ親しんだ日常性を突き放すとき、すなわち異化が起こるとき、観客は二つの世界を俯瞰する視座を手に入れ、それゆえ笑うことになる 。
一人ひとりの言葉の使い方の違い、あるいは一つの言葉から受けるイメージの違いを平田は「コンテクスト」と呼ぶ。コンテクストとは、本来文脈という意味であるが、平田の定義では「その人がどういうつもりでその言葉をつかっているかという全体像」 を意味する。劇作家は、一つの台詞を通じて、単なる事実や情報以外に、会話の主体の間柄をも表現する。例えば、コント「上下関係」 では、小道具・大道具もない空間に下手の箱椅子の上に立っている片桐と、上手で斜向かいに立っている小林が現れ、観客には二人の会話から二人がどんな間柄なのかの情報が与えられる。

片桐「俺みたくなりたいのかー!」
小林「Yes I am!」
片桐「働け!」
小林「はい!(スコップで土を掘るような動き)いけね、ちょっと間違えちゃった」
片桐「こら!!」
小林「ああ!すいません!すいません!」
片桐「最悪だよ。なんでそんな簡単なこともできないんだよ。俺はお前くらいの時、それくらいのこと全然できてたよ。しかもお前より全然若かったのに」
小林「すいません。以後気をつけます」

台詞というものは、ただ一方的に喋るのではなく、相手役との関係によって成立する 。上記のやりとりとふるまいで、観客は関係を探っていく。片桐が箱の上に立ち、偉そうな態度をすることで上司のような存在で、小林は片桐の部下である関係を提示されている。しかし、二人がどこにいるのか、どのような役柄なのかは一切明かされない。このような、関係性は推測できるが、登場人物がいる場所が現実にあるシチュエーションにあてはめることのできない演出のコントはラーメンズ特有のものだ。これは、場所よりも、関係とか事件のほうが、お客さんに与えるべき素材だという小林の意図が反映されている。小林は台本作るうえでふたつ大きな柱があるという。人物描写と関係描写の二つ。関係や事柄だけを作れば、見ている観客は会社やバイト先等、それぞれなんらかの経験に合わせ、勝手にシチュエーションを考えるのだという。

どこかで見たことあるようなキャラクターや、気にさせる要素を提示された観客は、その言葉や演技から想起される現実世界を比較する。他方、ラーメンズのコントで描かれる「非日常の中の日常」の仮想世界とが対比される。 しかしラーメンズのコントで描かれる日常は、どこか観客が経験してきた馴染みの景色とも共存する。ゆえに、観客は非日常の世界を抵抗なく受け入れることができ、笑えるのである。

第2節 非日常の中の日常を観客に受容させる方法

舞台中央に、椅子と譜面台が置かれている。下手前方、フードを深く被った小林が、客席に背を向けた状態で体育座りをしている。そこへ、ギリジン(片桐)が「♪ギリギリギリジンジン ギリギリジンジンジン…」と歌を歌いながら竹馬に乗って登場する。

「♪ギリギリギリギリジンジン ギリギリギリジンジンジン 
♪ギリギリギリギリジンジン ギリギリギリジンジンジン
♪ギリギリギリギリジンジン ギリギリギリジンジンジン
なーんーでーもギリギリで 解決するぜ ギリギリジンジンジン」

ここまでがオープニングの導入部で、最後の「ギリギリジンジンジン」の後に台詞が追加される場合もあるが、このフレーズは「ギリジン」シリーズではすべて同じである。

劇場に来てくれたすべてのお客様を楽しませたいとの思いから「予備知識のいらない笑い」を心掛けているという 小林は、恒例のフレーズやおなじみの見せ場なども、できるだけつくらないようにしている。ギリジンというキャラクターは、ラーメンズ第11回公演「CHERRY BLOSSOM FRONT 345」に収録されるコント『怪傑ギリジン』で初登場した。その後、第12回公演「ATOM」の『路上のギリジン』に続き、第13回公演「CLASSIC」ではコント『ギリジンツーリスト』にも登場する。このようなシリーズ化したコントであっても、小林は「新作には旧作の情報がフリとして機能することがないように気をつけている」と言う。それは、旧作を知らない観客でも、その作品を同じように楽しんでもらうことと同時に、何度もラーメンズの公演に足を運んでいるファンも楽しませるための小林の工夫だ。

必ず繰り返される「♪ギリギリギリギリジンジン ギリギリギリジンジンジン」というフレーズはツカミの部分であり、観客は大きな鳥の羽が一つついた金色の帽子を被るギリジンが、竹馬をギターのように構えるシュールさに笑いながらも、台詞では笑いは生じない。しかしギリジンが自身の日常を歌い上げていくと、客席からは笑いが連発する。

※♪ギリギリギリギリジンジン ギリギリギリジンジンジン
生活費がギリギリだ 仕送り十万円 バイトが六万円 家賃が六万四千円 管理費一万円 のこりが八万六千円 食費が三万円 のこりが五万六千円 トドメが光熱費 平均二万六千円 のこりが三万円 日本竹馬連合会 会費が九万円 
※♪ギリギリギリギリジンジン ギリギリジンジンジン
ギリギリどころか足りてない ギブミー六万円(あー)
※♪ギリギリギリギリジンジン ギリギリギリジンジンジン

ネタ部分はギリジンが自分の生活をリズムに乗せて語り、ギリジンの一人語りでフォローまたはツッコミが入る形がワンセットで進行する。そのあとに必ず※印のリフレイン部が歌われる。つまりネタとネタの間に必ず「間仕切り」 がある構造になっている。井山は、「間仕切りがあって初めて、それぞれ独自の形式の単位となるフレームが確定する。本来笑いのトリガーとなるネタ部分はフレームの中の一部にすぎない」と解釈する。

路上でアーティストが演奏する場面は日常でよく見られる風景である。しかし、竹馬をギターのように構え、「♪ギリギリギリギリジンジン ギリギリギリジンジンジン」のフレーズを繰り返し歌うギリジンの存在は非現実的だ。しかし、ギリジンが歌う歌詞の中身は生活費の内訳を歌うものになっている。家賃や食費や光熱費など、シュールの成立条件であるリアリティーの確保を担う言葉が続くが、“日本竹馬連合会 会費が九万円”というギリジンの世界特有の支出項目が突然現れる。ギリジンは日本竹馬連合会に属しているという新たな設定に観客は混乱し、大きな笑いを生み出している。

 ※♪ギリギリギリギリジンジン ギリギリギリジンジンジン
カルチャーセンター行きました 陶芸やりました ロクロを買わされた 会費が高くてやめました ギブミー十万円 作ったお茶わん焼く前だ どうにもなんないな ロクロは部屋の片隅で テレビの回転台
ぐるぐるまわるーブラウン管
全然見えません まるでパトランプ 最後はコードがからまって
火花が散りました
アパート全部焼けました 茶わんも焼けました(おー)
※♪ギリギリギリギリジンジン ギリギリジンジンジン

ギリジンは日常を歌にして歌うが、会費が高くて陶芸をやめたのはいいけど、作ったお茶わんは焼く前のままだったり、ロクロをテレビの回転台代わりに使い、結果火事になってしまうのは間抜けた姿だ。火事によって焼く前の茶碗が焼けたというオチに観客からは拍手が起こっていたが、全体として無様な姿が語られる。ラーメンズのコントの世界観を観客が受容するために、小林は以下の方法を用いていると考えられる。まず、合理化の技法の一つである、「過度のディティールの描写」 がある。

ラーメンズがやっている「笑い」は、二人ともバカ(ボケ)で、ツッコミがいないという状態である 。小林は非常識な世界観の中でも、常識的な言動をしているので、まったくズレを感じることなく観られるようにしてあると主張する 。この常識的な言動は、非現実の合理化に大きく作用するものと考えられる。

第3節 公演における構造

最後の演目「アトムより」は、タイトルからわかるように、手塚治虫の『鉄腕アトム』という観客がよく知っている題材を取り扱う公演となっている。第12回公演「ATOM」が行われたのは2003年で、2003年は『鉄腕アトム』に登場するキャラクター・アトムが高田馬場で生まれたとされる設定があることから、手塚治虫作品・『鉄腕アトム』にまつわるコント並びに手塚治虫に関する要素が公演に組み込まれている。このコントでは、「アトム」のコントと合致するような箇所がみられる。「ATOM」を構成する6本のコントのうち、「アトム」と題目につくコントは2本だが、他のコントにも鉄腕アトムの要素が組み込まれていると考察できる。
鉄腕アトムのテーマは「ロボットを虐げる人間と虐げられるロボットの対立と差別」 であり、アトムは万能な科学の力を持ちながらも時に人間からの差別に直面し、思い悩むという重いテーマを背負ったキャラクターである。「上下関係」 では上の立場でモノをいう人間(片桐)と、下の立場でそれに従い、敬う人間(小林)。上の立場の人間は、下の立場の人間に負けまいと必死に取り繕うというコントにおける構造が、鉄腕アトムのテーマにおける人間とロボットの対峙と、上下関係の対峙と類似する。
コント「新噺」では落語に縁が深い手塚治虫にちなんだコントと考えられる。
コント「採集」では、虫の標本作りが趣味の理科の教師(片桐)というキャラクターが登場する。手塚治虫のペンネームは、手塚が大の虫好きであったゆえに当て字をしてつけたと言われている。理科教師は手塚の姿から作られたキャラクターだと推測できる。

この公演全体の構造としては、まずは黒い舞台にラーメンズの二人がスッと立つシーンから始め、観客のラーメンズに対する先入観や知識などのばらつきを狭めるコントを配置し、次に「新噺」で観客の知性の撹乱を誘い、公演全体のテーマである鉄腕アトムの世界観を基とした「アトム」、観客が最も安心した状態で見ることのできる「路上のギリジン」を配置した後に、「採集」という推理の要素が入った観客に緊張をもたらすコント、最後に関係性のあたたかさ、寂しさを感じさせる「アトムより」というコントで締めくくっている。「路上のギリジン」は「タカシと父さん」や「怪傑ギリジン」などを想起させるため、ラーメンズのコントをよく知る観客にとってはいつもの自由な片桐仁を見守るというような安心した気持ちでコントを眺めるため、緊張状態が一度解けたような状態になる。しかし、「採集」では人間の剥製をつくるという死の恐怖を観客に感じさせる世界観を呈するため、観客は再び緊張した状態へと戻される。「アトムより」は各コントの要素を回収するため、それぞれのコントを振り返らせるような効果があると考えられる。「アトムより」のコントでは「上下関係」のように会話の中で二人がどのような関係なのか観客に想像させる。片桐演じるノスは、「路上のギリジン」を想起するような自由な片桐仁を思わせるキャラクターだ。また、コント内で映画監督である冨樫(小林)がノス(片桐)に台本読み合わせに誘うシーンがあり、その台本は「アトム」の台詞となっている。その演出によって、観客はこれまでの演目が完全なるフィクション、作りものであるかと予想するが、小林はそれを裏切る。部屋の窓から外を眺め、冨樫が「ああ、アトムだ」と呟く。この一言によって「アトムより」のコントの世界では鉄腕アトムが存在することを示す。最後にノス動きが止まり、冨樫の「バッテリー、あったかなー」という一言でコントは締めくくられる。最後の一言によって、冨樫とノスの関係性が人間とロボットであることが露呈し、観客に寂しさや悲しい気持ちを喚起させる。

終章 おわりに

以上、主にラーメンズ12回公演「ATOM」の作品を取り上げ、分析を行ってきた。
どのコントに注目しても、笑いをつくるためにただ一つの要素でできているのではなく、様々な要素が重層的に用いられ、面白さの種類が豊かなコントとなっている。ラーメンズの公演は、ただ一つのテーマに沿ってバラバラにコントが配置されているのではない。その順序、コントの中に張られた伏線、すべてが計算されて一つの公演が創り上げられているのである。
小学生から大学まで小林の軌跡を分析してきて導き出された一つの大きな核がある。それは「面白い人への憧れと、面白い人になりたいという欲」である。
「わがまま」は裏を返せば自分のやりたい事に正直で、目指す方向にブレがないということだろう。小林賢太郎は「自分がつくったもので、目の前の観客を楽しませたい」というやりたいことを目指し、新しい作品を作っていくであろう。その原点には「面白い人になりたい」という羨望が常にある。
 「面白くて、美しくて、不思議であること」が小林の目指す世界観である。 それを実現する重要なルールは「コント」とか「演劇」という概念の完成予想図を持たずに自分の作りたいものを純粋に形にするというやり方だという 。
 その見せたい世界観をパフォーマー側が「見てください!」と一方的に押し付けるのでなく、観客側も一定以上の努力をして「見せてください!」という態度であり、リアリティのある表現の場であることが舞台を中心に活動をする理由の1つであるという 。
 小林が目指すのは「自分の作品で目の前のお客さんを楽しませること」である。ある程度のクオリティーを保って経済的な成功をしながら継続し続けるということも理想であるという 。
 小林賢太郎の、たくらみを知って実際のコントをみると、コント中に小さな企みがギチギチに込められていることがわかる。小林賢太郎の作品を理解するために一番いいやり方は、実際にそれを読んだり上演を見たりすることである。その場合、小林賢太郎がどんな手法を用いているか、また彼の手法がどんな世界観や演劇観によって支えらえているかを知ると、作品をより楽しむことができるであろう。

#ラーメンズ
#笑い
#分析
#ユーモア
#小林賢太郎
#片桐仁


スキを押すと、2/3の確率で冬にうれしい生活雑学を披露します。のこりはあなたの存在をひたすら誉めます。