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親の限界と戦い

一日のほとんどをスマホやYouTubeを「消費」することに費やして、それで「生きている」と言えるのか?

たぶん、それもまた生きていることなのだろう。
古い昭和生まれの自分には、そこが腹落ちしない。
だから、苛立つのだろう。

理解するか、拒否するか。
ああああああああ!めんどくさい。

自分の子どもの世代を「理解」する必要なんてあるのだろうか?
子どもを、三人何とか成人まで育てる。
本人に意志があれば、大学まで卒業させる。
そこまですれば、それで親の機能は果たした、ということで許して欲しい。

もう限界なのだ。
岸見一郎さんのアドラー心理学が救いになっている。
いわく「課題の分離」。
子どもの課題について、親は何もできない。
何もしてはいけない。
ただ、頭で理解しても、心がついてこない。
子どもたちの一挙手一投足に苛立つ。

理解はできない。
「親ガチャ」なんて言葉に激しい拒絶反応がある。
何が「親ガチャ」かよ。
それを言うなら「子ガチャ」で返すぞ。
「親ガチャ」が正当な環境に育ってきた子もいるだろう。
問題は、適用範囲を拡大し過ぎることだ。

子どもと正面から戦っても不毛だ。
ただ、自分は上記のような様々な局面において、心を折らずに、激しく苛立っていきたいと思っている。
認めん。

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