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旧萩藩御船倉から見る長州藩史

萩市の市街は城下町として世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」の構成要素です。
同時に市街の3か所が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており松本川河口の浜崎地区はその一つです。
萩は維新で藩主以下が転出してしまい留守居の旧武士階級は困窮するのですが、浜崎地区は海運で明治まで隆盛していました。
輸送が海運から山陽鉄道にシフトすると古い町並みは変化しなくなり今に至ります。

この町で異色なのは『旧萩藩御船倉』といわれる1608年の指月城築城に追って建てられた御座船を納める倉です。

倉の大きさは26.9m梁間8.8m高さ8.8mあり、1609年には西国大名の大船が没収されているので500石程度の船だったと思われます。

現在の木戸側から見ていますが使われていた当時は奥から倉に入っていました。
木戸側は水中なので当たり前ですが現在の床は土が相当に堆積していることになります。

梁の松の木は1本を除いて400年前のままだそうです。
瓦屋根は昭和に葺き替えてありますが昨今の板張り屋根ではなく、杮葺きになっています。

石垣も当時のままですから倉に納めるときは帆柱を倒していたと想像できます。
今回取材しませんでしたが藩主が奉納した御座船の絵馬が住吉神社に残っているそうです。

八江萩名所図画を見ると倉は4つあり現在残っているのは右から二つ目で残りの倉は軍船といわれています。

八江萩名所図画の五
御船蔵の図

当時は松本川から引水してあったことがわかります。
維新後に一帯が埋め立てられ御座船以外の倉が次々に解かれ、入り口に木戸が付いて今のようになっています。
古地図で見ると港のようになっていたのが分かります。

萩城下町絵図

港部分は明治に埋め立てられ商家が並んでいましたが昭和に入って大火に遭い、萩沖の離島を引き上げた方々の住宅などに充てられたようです。

萩城:指月城

1600年の関ヶ原で「不戦敗」により防長二国に押込めになり、徳川に瀬戸内側の築城を拒否され萩に城を築くのですがこの御船倉を見ると毛利水軍のプライドを感じます。
一旦は山口に築城しようとして幕府に拒否されたという説がありますが、海もない山口に毛利が城を築くはずもないです。
毛利家は萩藩のほかに岩国藩、徳山藩、清末藩、長府藩と支藩がありますがいずれも館は瀬戸内にあります。
実は萩藩の版図も防府まで繋がっており瀬戸内側の三田尻にも御舟倉があり、現在も石垣が残っています。

上屋は無くなりました

船は汐待がありますし、萩藩の出張所でであるので「茶屋」が造られています。
これが現在の「英雲荘」で維新後は茶屋から毛利家の邸宅や進駐軍のゲストハウスなどになり、現在は防府市に寄贈されています。

檜皮葺き部分の一階は江戸の造作

萩と防府を繋ぐのが萩往還であったわけで山口は単なる中継点だっただけです。
幕末に突然山口に藩庁を移したのは、馬関戦争で洋艦の射程距離に驚愕して海辺の萩を引き上げ瀬戸内に面した防府も避け内陸の山口に越しています。
同様に長府藩も勝山に御殿を移しています。
海軍の毛利が維新では陸軍力で勝利したのも面白いですし、日本の東西を海運ではなく鉄道でつないだのも萩藩士の井上勝なのも面白いです。

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