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利己性が世界を変える(唯識に学ぶ012)

道元禅師のことばに、
赤心もとどまらず、片々として往来すというのがある。
赤心も変わるというのである。赤心も変わるというのはこわいことばである。
しかしそれが人間の真実であるし、真実であるならば、とにかくそれを変わるものとしてそのままうけとらなければなるまい。しかし、そのことを認めるのはこわいから、胸の底で変わらないと固執しようとする。変わるものは、変わるものとしてうけとることが肝要なのである。
変わるものを、変わらぬと誤認したところからは、虚構が生まれるだけである。こわくとも、変わるものは変わるとしっかりうけとめたところから、そこからはじめて真実が開けてくる。

「仏教の心と禅(太田久紀著)第十一章より」

終わりは末那識のことについて。末那識は、阿頼耶識に、利己性、我欲をはたらきかけ、自我の固執と優越感を得ます。この世は無常、常に変化し続けるものなのに、そこに変わらぬ自己を作り上げて虚像の自己を真実と思い込んでしまいます。

道元禅師の「赤心もとどまらず、片々として往来す」と言われているように、真心も移りゆくものだから、常に発心し続けて自らの内に修めておくようにしないといけませんね。

未那識は人間の生存にマイナスのはたらきのみをするのではない。自分のみに向けられていたこの<心>が、一度、その枠を打破して大きく転換し外に向けられてくると、この<心>が今度は逆に慈悲の根源へと変わってしまう。
自分についての<心>の浅い人からは決して他への深い慈悲は期待できない。
自分に対してのみそそがれていた利己性の<心>が深ければ深いほど、それが大きく外に向けられたときに、それだけ深く人のかなしみが見えてくるのである。
自分のみに<心>を奪われている人に菩薩の慈悲はないが、自分に<心>を奪われたことのない人にもまた慈悲はありえない。
利己性の<心>は、我執と慈悲、凡夫と菩薩のいずれへもの原点である。

「仏教の心と禅(太田久紀著)第十一章より」

末那識は人が生きていく上で必要なもの。欲がなければ向上もありませんし、愛情がなければ子どもは育たちません。一方で、自我への執着が強すぎると、周りに迷惑をかけてしまいます。欲を無くすということは不可能だから、欲を少しずつ広げていくということが大切です。煩悩即菩提。自分への利己性の心が深いほど、外に向いた時は慈悲に変わるということは覚えておきたいポイントですね。

「お客さんの喜びが自分の喜びになる」という言葉があるように、はじめは損得勘定で行っていた仕事も「相手がどうしたら喜ぶか、どのようにお役に立てるか」と、次第に考え方が変わってくるものです。これが末那識が外に向いたということではないかと思います。

阿頼耶識、末那識、六識、五識を合わせた八識と、初能変(阿頼耶識)、第二能変(末那識)、第三能変(前五識と意識)の3つの働きで私たちの心がなりたっています。いいかえると、過去の積み重ねが今の自分をつくっています。その自分に対して利己性を働きかけ不変的な自分と錯覚し執着します。そして、その捉われた自分で物事をみているのが私たちの姿なのですね。

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