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〇〇で何が悪い 光浦靖子の仕事

彼女を知る人であれば、光浦靖子という名前を聞くと、芸人としての仕事を真っ先に思い浮かべるかもしれない。現在はカナダ在住でメディアの露出が減ったものの、お笑いコンビ、オアシズの片割れとしての活動歴も長いので、テレビなどで見たことがある人も多いはずだ。

手芸作家としても活動している。主にフェルトのニードルワークで作られるその作品は完成度が高く、カラフルな色遣いや楽しいモチーフ、そのオリジナリティによって多くの人を魅了し、作品集も4冊刊行しているから、作家としての認知度は高いと言えるだろう。

だが、その仕事に対して正当な評価がなされてきたかというと決してそうは見えない。それを踏まえこのテキストでは、時代を浮き彫りにする一人の作家、光浦靖子の仕事を見ていきたい。人気があって注目度の高い人の作品を今さら論じる必要があるのかという声が聞こえてきそうな気もする。だが、その人が有名であろうと無名であろうと、どうしても書きたいと思わずにいられない作家が目の前にいて、見て見ぬふりをできる書き手がいるだろうか。

ところで、全くの余談だが、ふだん私は作品評や展覧会評を書くとき、作家に敬称をつけないしそのことに疑問も抵抗も感じなかったが、彼女の名前の敬称を略すことに少し違和感がある。芸人だからだろうか。不思議なものだと思う。話がそれたが、ここでは彼女を手芸作家として取り上げるので、いつも通り敬称は略すことにする。

時代を表現するジュエリー

私は主に、コンテンポラリージュエリーという、大まかに言えば自己表現や芸術表現をめざした特殊なジャンルのジュエリーを扱っている。作り手が今という時代をどうとらえているのか、また作り手がジュエリーをどういうものだと考えているのか。そんなことを作品からうかがい知ることができるのが、いちばんの面白みだと思っている。

いくつか例を挙げよう。たとえば工業デザイナーでドローグ・デザインの創始者でもあるオランダのハイス・バッカー。彼は1960年代、アルミニウムで近未来的な大ぶりのボディピースや装飾をそぎ落としたシンプルでミニマルなジュエリーによって旧態依然としていた自国のジュエリーシーンを一新させ、多くの追随者を生んだ。

スイスはオットー・クンツリを生んだ。ドイツを拠点に活動するクンツリは1970年代以降、ジュエリーの概念や身につけるという行為を根本から問い直し、写真やパフォーマンスも駆使したコンセプチュアルな作風により、アートピースとしてのジュエリーという概念を確立・浸透させた立役者のひとりだ。

最近の良い例はエチオピアにルーツを持つカルキダン・ホークスだろう。彼女の手にかかれば、ジュエリーは自分と同じ多元的なアイデンティティを持つ若者やマイノリティのコミュニティの創生やエンパワーメントのための力強いツールになる。ファッション、デザイン、アートの垣根をこえて縦横無尽に活躍し、モデルとしての立ち姿もサマになるホークスは輝くばかりの若きアイコンだ。

以上はほんの数例ではあるが、ジュエリーで時代や社会を表現する、ということの意味が少しおわかりいただけただろうか。私はこうした作家たちの仕事を見て胸を躍らせるいっぽうで、現代の日本社会という同じ足場を共有し自分と近い問題意識を持った作家、とりわけ女性作家の仕事を見てみたいと思うようにもなっていった。つまり、有名な美術評論家の著作のもじりのようになってしまうが、現代・日本・ジュエリーを象徴するような女性作家を求めていた。このパズルの欠けにぴたりとはまったのが、光浦靖子だった。

光浦靖子にとってブローチとは

光浦の仕事は『男子がもらって困るブローチ集』(2012)、『子供がもらって、そうでもないブローチ集』(2014)、『靖子の夢』(2017)、『私が作って私がときめく自家発電ブローチ集』(2021)という4冊の作品集でたどることができる。

作品集を開くと、フェルトのニードルワークで作った人形や動物を中心に、ビーズやスパンコール、リボン、端切れなどの組み合わせで構成された、カラフルで楽しいブローチがずらりと並ぶ。いずれも作品に加えてエッセイや親しい芸人たちとの絡み、ブッス!手芸部名義の活動の記録、ブローチの制作手順なども収められており、その内容は多岐にわたる。作家のブローチ観がまたいい。以下、『靖子の夢』に収められた「私がブローチを作る理由」というエッセイから引用する。

- ブローチは結界なんです。あの丸の中くらい自由にさせてほしいんだ。一人のおばさんの乙女解放区なんだ。

- ブローチって可愛いじゃないですか。ファッション的に、じゃなくて、ブローチという生き様が。なんか一生懸命なのに、鈍臭くて、報われなくて。アクセサリー界で一番不人気じゃないかなあ?

- 服のために生まれたはずなのに、服を選ぶ。アクセサリー界の人付き合い苦手キャラ。

光浦靖子 2017『靖子の夢』株式会社スイッチ・パブリッシング

私はこれまで、ここまで愛とユーモアに満ちたブローチ論にお目にかかったことがない。また、ここで書かれているブローチ像が作家と重なり合って見える。それは作家がブローチというささやかなアイテムに自分を見ているからだろう。その自己の投影は技法にも見て取ることができ、エッセイには、何千回と針を刺して作るニードルワークにやり場のない愛情を黙々と込める自分、という描写がたびたび登場する。

作り手がジュエリーを通じて時代とどう向き合っているかに興味がある私のような書き手にとって、作品越しに透けて見える、社会や今という時代に対する光浦のまなざしも、大いにそそられるポイントだ。

たとえば『子供がもらって、そうでもないブローチ集』で「心配性のお母様たちへ」という題のもとに紹介されているアルパカのブローチ。このブローチの服の留め具には、安全ピンの代わりにマジックテープが使用されている。そこには子供がピン先でケガをするのを恐れる過保護な母親に対する、ユーモア交じりの軽い風刺が効いている。小さくて誰かによって身につけられるジュエリーという媒体とフェルトという素材のコンビには、あまりに辛辣で手厳しい批判は似合わない。そのあたりをきっちり押さえてくるさじ加減もまた絶妙だ。

マジックテープというコロンブスの卵的な発想も見逃せない。ジュエリー作家にとってブローチ金具は腕の見せどころで、全体の意匠や構造とのバランス、金具の作りの良し悪しで作品が生きもすれば死にもする。それ以外がどれほどよくできていようと、金具が今ひとつではその作品の評価はガタ落ちする。ブローチ金具はそのくらい重要で手ごわい。だからこそ、この作品の意表を突く軽やかな発想は、ブローチ金具をまじめにとらえがちな私のような人間の目には、実に鮮やかに見えるのだ。

パンデミックとブローチ

作品にはコロナ禍の世相も反映される。『私が作って私がときめく自家発電ブローチ集』では、パンデミックのせいで会いたくても会えない芸人仲間をはじめ、多くの有名人の顔をかたどった似顔絵ならぬ似顔ブローチがずらりと並ぶ。どの顔もとてもリアルでありながら、フェルトの素材感とブローチゆえの小さいサイズ感によって生々しさが抑えられ、見ていて親しみが湧く。それはきっと作らているのが、作家自身が大好きな人たちだからでもあるだろう。

作家はこれらの作品に対し「私だったら? 私だったらこんなブローチ欲しいかなぁ。絶対に身につけないけど……」(前掲書、5頁)とコメントしている。どうせ外出して人と会えないのであれば、この際つけるつけないかは置いておいてやりたいことをとことんやろうという姿勢は筋が通っていてすがすがしく、また、そうして生まれた作品群はまさにパンデミック下のジュエリーと呼ぶにふさわしい。普通ならこういった作品はブローチである必要性を疑問視してしまうところだが、作家が自ら身につけて神妙な顔をして写真に写っているのを見ると、そこまでを込みにした一種のパフォーマンスのようにも見えてくる。

私はこれらの作品群を渋谷のロフトで直接見たが(注1)、写真で見るより立体的で、実物の方がよりいっそう本人に似ている。周囲の人たちが鑑賞しながら楽しそうに談笑していたのも印象的だった。ユーモアが不足しがちなジュエリーの展示会ではあまり目にしない光景だからだ。

同じ作品集には、マスクの前面につけるアタッチメントも掲載されている。こちらは人の顔ではなく動物がかたどられていて、顔の下半分が隠れるほどの大きなサイズと人目を引く奇抜な作品群は迫力も存在感も抜群だ。

作品に添えられた短い文章には、それぞれのアタッチメントをつけるのにおすすめのシチュエーションが書かれている。似顔ブローチと同じく、これらのアタッチメントも日常生活でつけようと思うとかなりの勇気がいるが、レースとパールで縁取られたつぶらな瞳のぶたはデート用、リボンとビジューでドレスアップしたシマウマはショッピングやお出かけ用など、どの状況設定にも見る者を理屈抜きで納得させる妙な説得力がある。この「普段つけづらいものであるにもかかわらず、そのイメージにおいて日常のシーンとマッチする」というつけづらさの在り方は光浦の作品、とりわけこのアタッチメントの作品に独特のものだ。

このシリーズに限らず、光浦は対象となる誰かや状況を常に設定しており、彼女のエッセイにもそれにまつわる発言を見つけることができる。「いつも誰かを思い浮かべて作っていました。(中略)人を思い浮かべると、無尽蔵にアイデアが溢れてくるのです」(『私が作って私がときめく自家発電ブローチ集』4頁)、「あげる人がぼんやりしてると、愛情がわかないものですね」(『靖子の夢』58頁)などがそれだ。

誰かのためから自分のためへ

私の知る中で、光浦ほど明確につけ手をイメージして作る作家はいない。そういった意味でも光浦は異彩を放っている。それを芸に取り込めるところも彼女の強みで、贈り手 vs もらい手の対立構造によるコメディを展開してみせる。最初のふたつの作品集、『男子がもらって困るブローチ集』と『子供がもらって、そうでもないブローチ集』は、タイトルにもそれが表れている。さらには芸人の加藤浩次やミュージシャンで俳優の星野源らに参加してもらい、彼らを思って作った作品を贈る光浦とそれを嫌がる相手という構図の掛け合いも展開される。

様子が変わってくるのは三番目の著作『靖子の夢』からだ。ここではそれまでの対立軸が後景化しはじめ状況設定の中心が自分へと移り、沖縄に移住してブローチを売って暮らすという作家自身の将来の夢がテーマになっている。作品以外の点では、自虐味を帯びた語り口や、加藤浩次とのお決まりのやり取りという点でこれまでの流れを踏襲しているものの、作品を素直に誉めてくれる草野仁との掛け合いも収められているところにも変化を見て取れる。

その次の『私が作って私がときめく自家発電ブローチ集』については先ほど触れた通りで、コロナ禍という状況や出版社が変わったためでもあるだろうけれど、対立構造は姿を消し、タイトル通りの自己完結的なトーンが貫かれている。

これには時代の変化も影響していると思われる。最初の作品集が刊行されたのが2012年。それから10年超を経た今、女芸人=非美人、非モテ、女を捨ててなんぼ、というステレオタイプは当の女性芸人の間でも時代遅れとみなされるようになってきた。それに伴い、そうしたステレオタイプを下敷きにした笑いもまた、徐々に行き場を失いつつあるということなのだろう。

設定されるテーマの変化は、変わりゆく時代への適合というだけでなく、芸人としてのキャラや芸風を前面に押し出さずとも勝負できるくらい、作家として力をつけ作品の質が向上したことの表れでもある。初期のころは確かに趣味の感が否めず、著作を出すにしても作品以外のコンテンツを必要としたかもしれないが、今の彼女は、ニードルワークのレベルや構図、テーマ設定、オリジナリティのどの点でも作家と呼ぶにふさわしい力を備えている。

コンテンポラリージュエリーと光浦靖子

ここまで見てきた通り、光浦靖子は優れたジュエリー作家である。それにもかかわらず、自己表現や芸術表現を掲げるコンテンポラリージュエリーの現場で彼女の名前を聞いたことがない(注2)。コンテンポラリージュエリーの世界は閉鎖的で、コミュニティに属していない作り手は目にとまりにくく作家認定されづらい。また、論じる人間がきわめて少ないという問題も抱えている(その点では筆者にも大いに責任があり、この論考も遅きに失した感がある)。光浦の仕事に対する注目度の低さには、こうした分野ならではの事情が働いていることはまず間違いないだろう。だがそれを差し引いても、これほど実力のある作家の名前をほぼ誰の口からも聞かないのはあまりに不思議だ。

では何が光浦を圏外に置かせるのか。その理由のひとつとして考えられるのは、手芸である点だ。ジュエリーは当事者がいくらアートピースだと主張しても、ジュエリーであるというだけで格下扱いされ、認めてもらえないことが少なくない。ゆえに、自分たちより格下扱いされがちな手芸というもうひとつのハンデをしょい込むのは避けたいという意志が、無意識的にせよ意識的にせよ、働いているのではないだろうか。

コンテンポラリージュエリーでも手芸の技法は使われている。だが、その場合はなんらかの形で手芸っぽさやハンドメイド感を打ち消そうとしているのが定石で、それがうまくいっているかどうかが評価の分かれ目になるきらいがある。対して光浦はむしろ手芸を全面に押し出している。

もうひとつ、光浦の作品には身につけるものらしからぬ通俗さがある。それはコンテンポラリージュエリーには見られない類の性質で、それゆえに敬遠されるのではないか。そういうふうに言うと悪口に聞こえるかもしれないが、これは断じて悪口ではなく、むしろ作家としての重要な持ち味であり、ブローチは結界でここでなら自由にできる、という冒頭で紹介した作者のブローチ観が可能にする思い切りの良さによってなせるものだ(注3 )。

コンテンポラリージュエリーにも、身につけることを前提としておらず、奇抜さや大きさの面でジュエリーとは呼びがたく、つけるにはトゥーマッチな作品が少なからずある。だから、それと比べて何が悪いのかと問われたら答えようがないが、たとえ実際はつけづらくともジュエリーである点への配慮が働くためか、通俗さや俗悪さの方向にメーターが振れた作品にはなかなかお目にかからない。そして当然のこととして、日常での着用を想定した作品は抑制や洗練が必要とされるから、こうした場合も、通俗さの入り込む余地はなくなってくる。

コンテンポラリージュエリーは、ひとつの表現分野としてこれから認知されようという途上にある。それゆえに、マイナス要素を逆手に取るという、村上隆がアニメやオタクカルチャーを持ち込んだ際に採ったようなリスキーな戦略を使えるだけの余裕は、まだないということなのかもしれない。

このテキストの執筆にあたっては、光浦靖子の仕事だけにフォーカスするぞと思って臨んだのだが、私の悪い癖で結局いつもの分野論を持ち出してしまった。だが、彼女の作品がコンテンポラリージュエリーか否か、またそこから認められるかどうかという点はさして重要ではない。それよりも、そこにからめとられることを許さなかった諸要素によって彼女の作品が批評性を帯びているということ、そしてそれが何を意味するのかということにこそ興味を引かれる。

私は冒頭で、この作家について書かずにはいられないと言った。それは、光浦靖子が既存の分野には回収され得ない、光浦靖子というひとつのジャンルとして成立するだけの、類まれな力を備えたジュエリー作家であるからだ。彼女は、ニードルワークという技法に自己を投影しながら自身の分身ともいえるブローチを作り、自ら身につけブローチ芸とでも呼ぶべき一種のパフォーマンスを完成させる。そこには鋭い着眼点でとらえた今の時代のありようを見て取ることができる。そうして何重にも自己を重ね合わせて作り出された世界は楽しくユーモアに満ち見る人の笑いを誘う。ジュエリーという表現分野が知らず知らずのうちに自主規制して避けて通ってきたあれやこれやが詰め込まれた光浦の作品は「私が私で何が悪い」と誇り高く開き直り、その強い光で私たちを照らすのだ。

注:
1.「私が作って私がときめく自家発電ブローチ展」は2021年6月10日(木)から6月24日(木)にかけ、渋谷ロフトで開催された。
2.:ただし、美術の分野では取り上げられたことがあり、箱庭風の《Mei ランド》やブローチ作品が、2019年4月6日から同年7月15日にかけて市原湖畔美術館で開催された「更級日記考―女性たちの、想像の部屋」展に出品された。
3.:これに関しては、工芸作品を扱う Gallery 花影抄で橋本達士氏と交わした会話が思い出される。氏によれば根付は欲望を全面的に出しがちな媒体なのだという。光浦の作品は、その趣味性の強さという点で根付に近いのかもしれない。実際、ブローチ金具がついていない(と思われる)人形や動物のニードルワーク作品は、重量的に根付として機能しそうもないが、たたずまいにおいては完全に根付的である。

参考文献:
光浦靖子 2012『男子がもらって困るブローチ集』株式会社スイッチ・パブリッシング
光浦靖子 2014『子供がもらって、そうでもないブローチ集』株式会社スイッチ・パブリッシング
光浦靖子 2017『靖子の夢』株式会社スイッチ・パブリッシング
光浦靖子 2021『私が作って私がときめく自家発電ブローチ集』文藝春秋
上羽陽子・山崎明子=編 2020『現代手芸考』フィルムアート社

参考ウェブサイト:
第1回「ブローチは小さな結界。」 https://www.1101.com/mitsuura_yasuko/2017-05-08.html
第2回「コツコツ、コツコツ、よくやるよ!」 https://www.1101.com/mitsuura_yasuko/2017-05-09.html
第3回「センスがなくても恥ずかしくない。」 https://www.1101.com/mitsuura_yasuko/2017-05-10.html
第4回「時間と労力をかけた前フリ。」 https://www.1101.com/mitsuura_yasuko/2017-05-11.html
第5回「「おもしろい」が一番大事。」 https://www.1101.com/mitsuura_yasuko/2017-05-12.html


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