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加賀美健:例のあの缶バッジ

数あるジュエリーのなかから、これを身につけたいと思う決め手はなんだろうか。あなたは持っているジュエリーの全部、それを選んだ理由やつける理由を説明できるだろうか。それを説明できること、あるいはできないことはあなたの、そして作家の何を語るのか。

2023年9月12日から9月24日まで恵比寿の NADiff Gallery で行われた「ミニマリズム」展では、現代美術家、加賀美健のウォールペインティングやインスタレーションが発表された。それと合わせて、2018年から加賀美が NADiff とのコラボレーションで作っている缶バッジと、その特大版も展示販売された。

缶バッジとその特大版は個展を構成する「作品」ではないのかもしれないが、実際の展示空間では作品かそうでないかの隔てが存在しなかった。そのアプローチには、アパレルなどとのコラボレーションも多いこの作家の仕事のしかたが表れているようにも見えた。

この缶バッジは、美術好きなら見たことがある人も多いのではないかと思う。私自身も前から知ってはいたものの、一度にずらっと並んだところを見るのはこれが初めてだった。

大量生産しやすい庶民的なアイテムだから、おもちゃのように扱われがちだが、缶バッジも立派なジュエリーだ。スローガンやロゴを入れてデモやキャンペーンで使われることも多い。パンデミックの時には、咳やくしゃみのせいで感染症だと勘違いされないよう「花粉症です」「喘息です」などと書いたものも出回っていたようだが、残念ながら実際につけている人を目にする機会はなかった。

このように文字入り缶バッジは、メッセージが明快であるのが一般的だ。では加賀美の缶バッジを見てみよう。このシリーズは、メッセージ入り缶バッジ、あるいはメッセージ入り缶バッジのパロディとしてのギャグ/ジョーク入り缶バッジ(の、さらなるパロディ?)と理解することができる。

NADiff a/p/a/r/t の店頭に並ぶ缶バッジ。冒頭の写真は特大版。撮影:筆者

そこに用意されているのは「アート」というテーマのもとに選ばれた34種のフレーズだ(今回の展示販売では「DOG」をテーマにしたものもいくつか混じっていた)。それらはすべて、加賀美の手書き文字で統一されていることで、ひとりの美術関係者の心の声のように見える。それが加賀美自身の声なのか、その他大勢の声を代弁したものなのかはわからない。

集団から取り出して単体で見ると印象が変わる言葉もある。たとえば「ART 大好き」。アートファンによる無害な発言に見えるこの一言は、「説明が小難しい」「こういう感じの絵もう飽きた」などに混じると皮肉な響きが倍増する。考えてみればアートをわざわざ ART と表記しているところからしてすでに怪しいのだ。

肩書系のフレーズに至っては、缶バッジやバッジの類がもつ ID としての役割がねじれだし、複雑なニュアンスを帯びはじめている。たとえば「おーごしょあーてぃすと」「某有名カメラマン」を実際のアーティストやカメラマンがつけていたら、一見すると単純明快なジョークにしか見えないだろう。だが、この言葉はもともと加賀美が発したものであり、ひょっとするとほかの誰かに対する揶揄の類なのかもしれないのだ。ここにおいては、ある美術関係者の皮肉めいたジョークが他者によって身につけられることで、本来ならば明確であるはずの ID の指示対象がぼやけだすと同時に、加賀美とつける側との間に奇妙な共犯関係が結ばれる。

NADiff とのコラボレーションではないが、加賀美はキーホルダーも作っていて、それには「オートロック」「鍵アカ」「合鍵返せ!!」など鍵や家まわりのワードがあしらわれている。

缶バッジにも、キーホルダーと同じようなバッジやジュエリーに関する「アイテムネタ」が書かれているのなら自己完結していて単純だ(そういう意味では特大バージョンの缶バッジの方がずっとわかりやすい)。言い方を変えれば、缶バッジに書かれている言葉はどれも、Tシャツやバッグ、ステッカーなどといった何かほかのアイテムに書かれていたところで何の問題もない。

この缶バッジにかぎらず、加賀美の仕事を見ていると、様式や形式や制度(ここではそれらをひっくるめて「決まりごと」と呼ぶ)の波の上をサーフィンしていて本人もそれを楽しんでいるという感じがする。そこではスピード感と軽快さが必要になり、ひとつの決まりごとにどっぷりつかっていると目について埋めたくなる隙は度外視されざるをえなくなる。

そうしてできた隙が遊びを生む。それを素直に楽しめる人は風通しのよさを感じるのだろうし、あれこれと難しく考える人にはきっと落とし穴になる(注*)。加賀美によって用意された遊びにどう反応するかでその決まりごとへのはまり具合がわかるというわけだ。

その隙や遊びを象徴するのが、見る人が見ればすぐにわかるあの手書き文字だ。本来その人の筆跡はきわめてパーソナルなものであるはずだが、加賀美の脱力した筆跡はやたらと顔が広く軽薄だ。この軽さは、缶バッジに書かれるにしては実はおかしな語群の、そのおかしさを希釈する。そして、加賀美以外の美術関係者がこの缶バッジを気軽に身につけられるとしたらそれは、これがジョークであるというだけでなく、彼の字体がひとりの美術家の署名という重みから逃れ、ひとつのフォントに近い存在になっているからだろう。

同時にあの字体は、ひとつの示唆もする。加賀美はあるインタビューで、人とのやりとりから作品ができることもあるという趣旨の発言をしている。そのためもあるかもしれないが、あの字体はキーボードで打ち込まれた文字とは異なり、会話で発された言葉がその空気や温度を保ったまま空中を漂って缶バッジに貼りついたように見える。だから前後のやり取りを想像したくなる。

ジュエリーはよくカンバセーションピースだと言われる。会話のきっかけになるというほどの意味だが、加賀美の缶バッジにおいては、会話のきっかけになるだけでなく、書かれた一言が発せられた場所を想像させるという点で、カンバセーションピースという言葉が新たな意味を獲得している。

ここまで長々と書いてきたが、要するに、缶バッジであることに無頓着であることで生まれるいくつものあいまいさを、広く知れ渡りすぎたゆるい筆跡によって遊びに転がすのが、加賀美健の缶バッジの特異点だということになる。

この缶バッジのことを知って早や数年。いくつもの決まりごとに縛られている私はいまだに、どれを選べばよいのかわからずにいる。この中に「インチキカメラマン」や「なんちゃってアーティスト」などの一環で、書き手をネタにしたものがあればそれを選んでいただろう。ひょっとして、この缶バッジのラインナップに「インチキライター」も「なんちゃって批評家」も含まれていないのは、加賀美にとってそれが冗談にならないからだろうか。それともむしろ、彼の周囲にはまともなライターや批評家しかいないということだろうか。あるいは単に、書き手という存在が加賀美の視界に入ってこないだけのことかもしれない。


注*
私をはじめとする多くの書き手はおそらく後者で、その落とし穴にはまらないよう慎重になる。だがそうやって書いた文章は冷めたものになる。この温度の低さと、加賀美の持ち味である「笑い」が本来求める瞬間的な温度上昇とのあいだに齟齬が生まれ、読んでいる側はしらけてしまう。なかなか書き手泣かせの作家だと思う。

   
撮影:筆者

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