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「耳を信じる」の解説

今日あげた詩は、
この間の文芸会で発表した詩の一つです。

合評で、
みなさんが「わたし」の目線の変化に注目してくれたり、
三連目で「見上げる」になった時に築いてきた光景が崩れて慌てたとか、
書いた本人では気にできなかったところまで気付いてくれて、
みなさん、凄すぎないでしょうか??と思いました。

そんな今日の詩の解説のような、
付け足しのようなことをします。


「わたしはわたしが猥雑なものであることを
 識っている

 わたしはわたしが悪事を平気な様子で
 眺めているのを観た

 わたしはわたしが言い様の無い不安を
 食べ続けているのを見上げる」

この目線の変化や、
「わたしはわたしが」
と繰り返していくことから
一体わたしはどこにいるの?と聞かれましたが、
私のイメージとしては、
「わたし」と「わたし」は現実に即しているものと、
内側でその様子の全てを観察しつづけているもの、
で進みます。
内側のわたしが、外のわたしに対して失望していく様、
こんな生き方では価値がないと膝を折り、
最後には蹲ってしまう。
なので最後のところは「見上げる」にしました。


「わたしはわたしに裂かれる尊いものたちに
 泣くべきではない

 思いを運んではならない
 外にはつよい風が吹く」

こんな私が自分の内情を漏らすことを良しとはできない。
今ここにいることだけでも耐えることに必死だというのに、
外になどいかれない。
そう、もう諦めています。


「それでも あなたはわたしに立つと言う
 わたしの耳を信じ 言葉と成って」

「あなたはわたしに立つと言う」という部分に引っ掛かりを感じる方も多かったです。
「あなた」は、失われた「あなた」。
あなたは、
こんな「わたし」であっても、
「必ず立って再び歩き出すことができる」と信じていてくれています。
きっと。
そしてだからこそ、
「私はもう行きますよ」
と声だけを置いていってくれる。
「わたし」ならば、
「あなた」の声を必ず耳に通すだろうと信頼してくれています。
「わたし」を動かす「言葉」になって。

という詩です。


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