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私のいままで、前半

私は徳島の田舎で生まれました。
私が田舎にいたころは、図書館は汽車で三つくらい駅を進んだ先でした。
外灯も少なく、夜は濃いです。
田舎あるあるですが、鍵なんて閉めるのは泊りがけでどこかに出かけるときくらい。
住んでる人間が少ないから、
世界はとても静かなものでした。
うちのうらに通る線路を挟んで、さらに山の方の家の電話の音が
家の中にいたって聞こえていたくらいです。
年配の人が多かったので、
大声で歌を歌ったって、誰にも何も言われませんでした。
(、、迷惑に思っていたかどうかは、もう分からないですが、、)
野菜は買うことがほとんどないくらい、
ご近所の畑をしている人たちがお裾分けを持ってきてくれていました。
田舎を出て、一番驚いたことは野菜の値段の高さと、
味の均一さでした。
田舎の我が家は、住んでる人が居るにも関わらず
“お化け屋敷”と呼ばれるくらいぼろぼろでした。
築八十年。(たぶん今はもっと年数を重ねてると思います)
揺れたら崩れます。
震度三ですごく、ぐらぐらします。
そんな家の庭には、桜、松、金柑、金木犀、銀木犀が植えられていました。
そしてその庭には、拾ったり増えたり、病院から譲り受けた猫たちと、家に連れてきてしまった犬たちが共存し、一時期は人間の倍の動物がいました。

うちの家系は少しややこしいです。
母の一回目の結婚で産まれた兄と姉とは、10歳以上年齢があいています。
私の父は、二人目の夫で、母よりも15歳年下です。
働くことが好きな人でしたが、女性に対しては誠実ではありませんでした。田舎で暮らしていた頃、はす向かいの奥さんと浮気をしてしまい、それがばれ、父は自分の実家に引っ込んでしまいました。
おかげで私の幼少期に父との思い出はほぼありません。
でも、気分屋で、幼い部分が多く残る父と離れて暮らせたことは私にとってはとても幸福な時間でした。
私の幼い時間のほとんどは母方の祖母と、猫と犬と友人たちで埋まっています。
十以上も年が離れている兄や姉は、友達と遊び歩き、家にいても自室で友人たちを呼んで遅くまで宴会をしたり、楽器を鳴らしたりで忙しく、私にかまうことはあまりありませんでした。
母の教育方針で、人に迷惑をかけなければお酒も煙草も禁止はされてはいませんでした。
なので、姉の部屋には吸った赤い煙草の箱と、飲み終わったワインや日本酒の瓶がずらりと並べられていて、なかなかな様相でした。
母自身が自由な人で、
活発に外に出ることが好きな人でした。
友達の店の手伝いで(皿洗いや掃除をして、あとはお客さんと飲んだり喋ったりしていたそうです)夜は11時過ぎまで帰ってこず、
昼間はお弁当屋さんで働き、
休みの日も友人たちと出かけたり。
店の手伝いへ行かない日も、きれいに着飾って
「いいとこまっちにいってくる」
と笑顔でお酒を飲みに行っていました。
“いいとこまっち”って何なんだ、、、と後からよく考えました。
それも別段寂しくはなかったのは、自分の優先順位に両親や兄弟の存在が上がらない子供だったからだと思います。
母が帰らない間、私は祖母が大量に集めておいてくれるチラシの裏でひたすら絵を描いて過ごしていました。
絵を描きながらお話を考えていたあの時間は、その後も私の人生の余白の使い方になっていると思います。
父にいたっては、盆暮れ正月に会う程度の人で、
父の日の似顔絵は顔が思い出せず描けなかったくらいです。

私はとても幸せでした。
大好きな祖母がいつも居て、
おいしい野菜で煮物やみそ汁をつくってくれ、
猫と犬が相手をしてくれ、
古いけれど十分に大きな家でいろんな音を聞いて暮らしていた時間が
私にはとても幸福な思い出として残っています。

私は二歳くらいから記憶があるのですが
(もちろん全部ことこまかに、ではありません)
あの時、私は世界は私を待っていてはくれないことを分かっていました。「死ぬ」ということも、ずっと変化を続けていくものであることも、分かっていました。
だから毎日、時間が過ぎていくその事実が怖くて仕方がなかったです。
大好きな場所も、友人も、祖母も、この生活も、あっけないほどにつよい流れに押し流されていってしまうもの。
そのなかで自分自身の内側だけが、自分の意思で変化を望まずにいられるものだとも思っていました。
だから私は、泣きながら大好きな瞬間を自分の中に繰り返し焼き付け、
けしてこの景色が自分の中から失われないように、
この好きなものたちがガラクタになってしまわない人間であれるように、
生きていかなくてはいけない、と考えていました。
おかげで、ひいばあちゃんの声や、感覚を今も覚えています。
そして、少し他の子たちと物事のとらえ方が違っていたのだと思います。

そんな私は、両親が子供と親は同じ場所で暮らさなくては、という心境に突然陥り、田舎から引っ張り出されることになりました。
私が小学校二年生にあがるタイミングで決行された引っ越しは
未だに泣きたくなるくらいの出来事でした。

浮気癖のある父と、
自由な母との三人暮らしはほんの少しで、
すぐに、大失恋を抱えて戻ってきた姉との同居がはじまりました。
私と、兄と姉は仲がよくありません。
上の二人が私の父親を嫌っていて、(母のことを愛しすぎているともいえました)父に似ている(らしい)私を見るのも嫌だったそうです。
もとろん私の父のことも嫌っていた姉は、そのことをうまく隠していたので直接的な衝突はほとんど起きずに日々は続きました。
そんな姉との同居は、本当に気持ちの沈むような毎日でした。
まったく口をきかないまま、生活は流れていきました。
(ちなみに兄は大阪で暮らしていました)

そんな姉は、私が小学校の高学年の頃には、社長の息子さんからの猛烈な告白を受けて結婚して同居はおわりました。
その数年後、夫さんのキャバクラでの300万の使い込みが発覚し
(それもそれは子供のために姉がやりくりして貯めていたお金でした)
夜逃げをして結婚生活を破壊し、再びいっしょに暮らすことになりました。
姉は、別居ののち社長の息子さんとは離婚をしました。

そんな姉の頑張り物語の最中、私は中学の頃まで両親と暮らしますが、
あまりにも場所や人間(家族も含めて)が合わなくて、
駄々をこね、家出を重ね、説得と泣き落としをくり返し、
母に「あたまがおかしい」と言われながら
田舎へ帰るという道をつかみ取ります。
小学二年生から言い続けて、中学一年生の半ばまで、ひたすら言い続けた私の粘り勝ちでした。
中学の残りの時間は、田舎の友人たちとともに過ごせて、とてもやさしい思い出ができました。


私は今自律神経の不調を抱えています。
それは遡ると小学生のころから。
ときどき心臓がばくばくと早鐘を打つ発作が起こります。
それが起こるととても苦しくて、立っていられなかったし、
おさまっても体がとても疲れてしまって、
残りの一日を体を引きずって過ごすことになりました。
それでも保健室に行くことも、
早退することもできませんでした。
我慢することが得意でしたし、自分の不調を伝えることが苦手でした。
両親がそんな私に気付くことはありませんでした。
小学生のうちは首を締める自傷もしていました。
苦しい時は、もっと苦しいことがあればすりかえて我慢できるような気がしたのです。
自傷は、中学にあがると手を切ることに変わりました。
その頃から体温が調節できなくなり、毎日平熱と微熱(といっても38度に届くこともしばしば)をいったりきたり、
夜はなかなか寝付けなかったり、夜中に何度も目が覚めたりということが
常態になっていきました。
それは田舎に帰ってもあまり改善されず、私は、田舎の中学でも先生によくく心配をさせてしまっていました。
中学一年を終える頃には、手の甲だけだった切り傷が手首、左腕の肘から下全体に広がっていました。
それなのにまったく気にせず半袖をふつうに着るので、
まわりの子には、もしかしたら少し怖い思いをさせていたかもしれません。
自分でどうにかできる限界だったのかもしれません。
それでも両親と過ごしている間、私はふたりにこの状況を説明することができませんでした。
体調不良を心の弱さだと言われ、泣くことを禁止され、泣けば車でどこかへ捨てに行かれたり、殴られることもあった環境で、
しんどいとも、休みたいとも言えませんでした。
なのでなんとか一本の糸に縋って生活を送っていた私は、
田舎に暮らすようになって気持ちが緩んだんだと思います。
そしてまわりの、本当に心から「大丈夫?」という声に、
やらなくてはならないことから手を放すことを決められたんだと思います。
担任の先生に、学校に週一で来ていたスクールカウンセラーさんに会うように勧められ、話をするようになりました。
田舎の中学校では、カウンセラーにあうことは特別なことではありませんでした。
友達と喧嘩したから聞いてほしい、好きな人のことを考えてたら不安になるのはどうしたらいいのか、という感じで、繊細な心を震わせる出来事にいっしょに寄り添ってくれる存在がカウンセラーでした。
カウンセラーさんは、その後田舎にいる間、数は減りましたが定期的に会い続けてくれました。
私が通いやすいように、病院ではなく学校の一室を貸してもらえるよう学校側と話し合ってくれたり、私の両親に、私にはカウンセリングが必要なことを説明してくれたりしました。
カウンセラーさんのおかげで私は槇原敬之さんを歌を知ったりもしました。

中学の卒業間近には、友人の失踪やら自殺があり、また滅入った私は
高校を諦め、かるい引きこもりになりました。
というより、体がいうことをきかなくて仕事に就くなんて夢のまた夢、という状態になっていたのです。

月一回のカウンセリングがなければ、私は全く人と会わない生活になっていったと思います。

あの頃は、本当に思い出してもしんどい日々で、
出口なんてないのだからはやく死なせてくれと思っていました。
実際、手を切ることも頻繁にしていたので
貧血や眩暈がすごかったです。

そんな日々が数年続き、
祖母の体が不自由になってきたことも不安で、
私は今度は私の意思で両親のもとに戻ることにしました。

そこには離婚した姉と姉の子供たちがすでに転がり込んでおり、
すごいすし詰め状態の生活がはじまりました。
私も少しは働きなさいという姉の圧に、
とりあえずまずはあまり人と関わらなくてもいい仕事をしようと
早朝のスーパーの掃除の仕事をするようになりました。
その仕事はなかなか楽しかったのですが、
仕事に行く途中に酔っ払いに追いかけられたことがきっかけで通うことができなくなりました。
いまでも背中に伝う汗を思い出します。
まだ暗い道で、両手を広げて何かを叫びながら追いかけてくる黒い影。
怪物が襲ってくるような恐怖を覚えています。
その後、パン屋さんの売り子をしてみたことでレジ操作もできるようだと分かり、ちょうど姉がバイトをしていた店を辞めて再婚することになり、
その穴を埋めるかたちで百円均一で働くことになります。
ここで私はギャルの友達ができたり、
本の返品作業を覚えたり、
化粧を教えてもらったり、
奥様がたと漫画を通じて仲良くなったりしました。
そこで二年ほど働き、私は半年間ですが憧れの書店員をしました。
その頃はパソコンがまったく扱えず、クレジットでの支払いではミスをしてしまったり、
なかなか大変だった思い出がありますが、
今でもつながりがある友人にも出会った、大切な時間でした。

この頃、我が家で噴出したのが父の(またしても)浮気の話でした。
それも本気の恋だという。
これまでにも浮気のことで離婚話がでていましたが、
そのたびに母が私のことを持ち出して止めていました。
(私のためってやつですが、母は父にぞっこんだったのです)
しかし私が二十歳のなるのを前に、父から話があると言われ
「実はお父さんは好きな人ができた。
そろそろお父さんを自由にしてほしい」
と話をされました。
ちかいうちに離婚の話を母にするので、
それまで黙っていてほしい。
そういう話でした。
いやいやいや、、、それは自分の胸にだけしまっておいて、

«母と直接話してよ。
私はその時か、その後でいいのよ、と。
このまま言わないでいると、これは私が裏切者としてあとで睨まれるぞ。
これ以上肩身が狭い思いさせないでくれよ。»

そう思いました。
還暦を目の前にしていた母。
15歳下の父に捨てられるのか、と同情もありました。
そして私はおろかなことに、母に話してしまいました。
(でも、そんなこと本当に娘に最初にしないでよ、と今も思います。)

そこからは母のことを愛してやまない兄と姉が烈火のごとく怒り狂いながらやってきて、父はあっという間に家を追い出され、職場に住み込むことになりました。
離婚するなら400万払え。
そう連日詰め寄る兄弟。
そのお金で家を買って、そこに母を住まわせるのだと言っていました。
そしてそのあとは私が働いて母を養うのだと。
それがあの父親の娘である私のつとめで、今まで迷惑をかけ続けてきた恩返しなのだと言われました。
父の会社に怒鳴り込んだり、父と相手の女性を呼び出してファミリーレストランの通路に土下座させたり、その状態の二人の頭に水をかけて喜んだり、
どんどんとエスカレートしていく兄と姉に
父の方でも弁護士をやとい、応戦するようになりました。
私は父や、父の実家に電話をかけさせられ、
お金の要求をのむように説得をするよう強要されました。
私の二十歳の誕生日、私は父の仕事場に一人でいかされ、
この契約書にサインしてくれないと帰れないと伝えました。
父も疲れ果てていて、私も疲れ果てていました。
兄と姉だけはとても元気で、どうあっても父を不幸のどん底に落とすのだと躍起になっていました。
そして私がお金についての書類にサインをもらって帰ってくると、形だけのおめでとうを言われ、
私の誕生日は終わりました。
思い出深い二十歳の誕生日でした。

その後、父は結局、自身の母親にお金を借り、200万だけを払い逃げました。
兄と姉は二人でお金を工面し、残りの200万をつくって母に家を買いました。
そこに私と祖母と母の三人で暮らすことになったのですが、
私に月15万必ず稼いでくることを命じました。
それは姉が計算して出したひと月で必要な生活費で、母や祖母の年金は当使ってはいけないということでした。
私はその時、十万円稼いだことさえありませんでした。
それがいきなり15万。
なんの資格もない、中卒の、自傷癖真っ只中の、体の不調を抱えた人間が。そんなことは関係ない、母と祖母を養っていくために身を粉にして働けと言われました。
目の前が真っ暗でしたが、生活は始まってしまいます。
私は働けそうなバイトの面接をいくつか受けました。
そして昼間はケーキ屋、夜は居酒屋で働くことになりました。
朝の九時から夜の七時頃まで働き、帰ってから仮眠をとって風呂に入って十時から朝の五時まで居酒屋で働きました。
そのうえ、兄と姉は私に二人が出した200万を払えと言い出しました。
今の生活でもかつかつなのに、無理だというと
体でも売ればいいだろうと言い出す始末。
母は、そんな兄と姉の意見に
「とりあえず銀行でお金を借りて、かえしたら」
と言い出しました。
いや、それって、私が借金するってことじゃない。
体売れ、というのとたいして変わらないのだけど。
そんな母は水を得た魚のようで、大好きなセミナーを東京まで聞きに行ったり、好きなことをして生活をしていました。

よく眠れない、体の疲れがどうなってるのか分からない。
そんな状態で、兄と姉の取り立ては続きました。
そしてついに私は切れてしまします。
「もうあんたたちに付き合うのはうんざりだ」
そう口にしていました。
さあ、大変です。
またしても烈火のごとく血が燃え上がった兄が
「今からお前をぶちのめしにいく」
と言って電話を切りました。
もう、どうにでもなればいいとなげやりな気持ちの私のもとに、
近所に住んでいた姉が確保にあらわれ、
子供たちを母の家に残し、私を引きずって姉の家に連れて行きました。
そのあとは兄が合流しての密室での私刑がはじまりました。
顔を何度も張られ、眼鏡は飛び、私も吹っ飛び、脳震盪を起こしたところを首をふむぞとおどされ、(兄は100キロの巨漢です)
かと思えば首を掴まれて起こされ、台所から包丁を持ち出して私にそれを持っていることを要求しました。
「お前が刃物を持ってるから、俺が殴ってるのは正当防衛だ」
という意味不明の理屈を口走りながら、殴り続けられ、
姉が
「本当に殺さないでよ」
なんて軽口をはさみ、
途中かかってきた兄の友人からの電話に笑いながらでて
「今妹をシメてる」
と答えていた兄。
体のあっちこっちが熱く、だるく、うごくことができず、
泥人形にでもなったような気分でした。

そんな状況で、また電話が鳴りました。
それは母からで、その日は東京まで出かけてセミナーを受ける予定でした。
その電話もセミナーの合間にかけてきたらしく、
兄が腹立たしそうに、私にひどいことを言われたのだと母に訴え、
そして今殴っていることまでを伝えました。
私はこの時、ああ、母はさすがに兄を説得してくれると思っていました。
ぼろ布のように蹲る私に、兄は母からの電話を聞こえるように押し付けてきました。
聞こえてきたのは、母の急いでいる声。
「あんたがいらんことを言ったんだから、兄ちゃんに謝りなさい。
お母さん、もうすぐセミナーが始まるから」

あの瞬間、私は母親を諦めました。
この人を母親だと思ったら、私はきっと駄目になる。
だから、他人のだと思おう。
そう決めました。
そうじゃないと、お腹の中からマグマを吐き出しそうでした。

兄は、電話が切れると勝ち誇ったようにわらい、
煙草を吸いにベランダに出ていきました。
そのすきに私は逃げ出し、家に戻りました。
帰り着くまでに、その頃お世話になっていたsnsで知り合った人に相談をし、警察に電話をすることを勧められました。
私はすぐに警察に電話し、助けを呼びました。
兄と姉は怒り狂って母の家に怒鳴り込んできました。
玄関口で怒鳴り散らす兄と対峙しながら、
はやく来てくれと警察を待ちました。
やってきた警察官のひとに話しをしながら、兄は怒りで真っ赤に顔を歪めながら母に電話をしていました。
母は、セミナーを中断されたことと、兄弟を警察に突き出すなんてなんてことをしたんだと私をなじりました。

警察のおかげで顔がはれ上がり、体があっちこっち痛み、ふらふらの状態ではありましたが、助かりました。
私はそのまま少し体を休め、
そのまま夜の居酒屋の仕事へ出かけました。
お店につくと、店長と他のスタッフが驚いて
「何があったの」
と心配してくれました。
今なら、休む選択肢を持てたと思いますが、あの当時私にはそんな余裕は
ありませんでした。
幸いなことに薄暗い居酒屋だったので、顔の腫れは髪の毛を下ろしてかくし、なんとか頑張ることができました。
店が終わってから、店長と、数人のスタッフにことのあらましを話しました。
そこにいた人たちには、家族の状態などを話していたので、
聞きながら
「それは警察に突き出してあたりまえ」
「ここに逃げてきたらよかったのに。
もし、今度そんなことになったら店に逃げてきな」
と憤慨してくれました。

その後は、私は自殺を試み、母に止められ、
やっと状況を少し受け入れた母が
兄と姉に私に対しての暴力を責めると
今度は兄と姉の激情が母にまで向きました。
母に、この家は半分は自分たちが払ったのだから今すぐ出ていけといいだしました。
住んで二か月。
年の瀬も迫ったころ、私と母と祖母は、その年二回目の引っ越しをしました。
私はあれこれの疲れがでて、高熱で寝込みました。

引っ越したはいいのですが、そのために私の職場を変えなくてはいけなくなりました。
なんとか生活費を稼げる場所を探し、最近まで勤めていた古着屋で働き始めました。
居酒屋は、場所が遠くなってしまったのですが、急にはやめられず、しばらくは古着屋で朝11時半から夜の8時半まで働き、居酒屋には十時から朝の五時まで働きに行っていました。
あの一月と少しの時期は本当に頑張ったと思います。
古着屋一本になったときは、本当にうれしかったです。
夜寝られることの幸せに泣きました。

長くなりましたが、ここら辺までが私の半生になると思います。
読んでくださった方は、しんどくなっているかもしれません。
気持ちを沈めてしまってすみません。
でも読んでくださってありがとうございました。
また古着屋時代の色々も、書いておこうと思っています。
よければまたお付き合いください。
ほんとうに、ありがとうございました。

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