「変化する目をもつ少年の話 あの日の夢のはじめのこと」
このお話の続きです。
いづるが帰ってしまってから、
おれは食卓に着いていた。
父さんが用意していってくれたらしい食事は、
レトルトのお粥と、足りなかった時の為なのかシーフード味のカップ麺だった。
たぶん朝のおれの顔色を見て、
食欲がない可能性を考えてくれていたのだろうけれど、
有難いことに眠ったことで食欲もしっかりと戻っていた。
お湯を電気ケトルで沸かしながら、おれは朝のことを思い返す。
父さんは、おれを部屋まで連れて行き、ベッドに寝かせてから昨日のことを話させた。
おれはいづるが雪を見たいと言ったこと。
あの山の上の公園でそれを実行してみせたこと。
雪はほんの数欠片降ってきただけで、ほとんど天候は変わらなかったこと。
その時すこし眩暈がしたこと。
でも暫くすると平気になり、ふたりで帰ってきたこと。
「夜は、早く寝たんだよ。ちょっと頭が重い気がしたから」
「そうか」
言いながら、父さんはまたおれの額を撫でた。
そっとそれを滑らせて、おれの目を遮った。
「たすく、学校には父さんから連絡をしておくから、
今日は休みなさい。このまま寝ていること」
うん、と言ったような気がする。
けれど、そのあとの記憶はおぼろげだった。
父さんの手が離れた感覚はあったのに、もうその頃には目を開けていられなかった。
眠たかったのではない。
体が動かなかった。
瞼を上げることも、難しかったくらいに。
白い蒸気を噴き出してケトルのか細い振動が止まった。
ゆっくりとお湯をカップ麺に落としながら、
おれは今の自分の体の感覚をひとつひとつ確認していた。
目は、見えている。異常はない。
耳は聞こえているし、足はきちんとバランスをとって立てている。
お腹は空いているし、きちんとこうして朝のことを思いだして考えられているのだから大丈夫だろう。
時計の針の動きを追いながら、腕を上げてみたり、屈伸をしてみたりしてみたが、どこもいつもと変わりはないようだった。
「何だったんだろう」
声に出してみて、喉も大丈夫。
三分経ったことを確認して、カップ麺の蓋を剥がした。
一応レトルトのお粥も温めてある。
椅子に座り、手を合わせる。
「いただきます」
どうぞ、おあがり。
そう返してくれていたことがあったのだろう。
恐らくおかあさんの声で、頭の中に響く声に、懐かしさは薄かった。
おかあさん。
その声は毎日の中で繰り返し聞いてきたものなのだ。
誰の耳にももういないのかもしれない声。
けれど、たしかにおれの耳の中には響く。
どうぞ、おあがり。
それがおかあさんの声。
夢を見ていた。
体は、どこか実体を感じない。
夢なんだから当たり前かと思いながら、おれは辺りを見回した。
白い。
いや、どこか緑がかっている。
光は黄色い。
防音なのかは知らないが、何かを遮断しているような不思議な形状の壁に三方を囲まれていた。
目の前には真っ黒な窓があった。
その壁の一面のほとんどを使ってはめ込まれている。
真っ黒、というよりも、真っ暗な窓だった。
そこにはうつろな目のおれが座っているのが映っている。
おれを囲むように大人たちが数人いて、
その顔はぼやけている。
直接雲がかかったみたいに、本当にそこに人間の顔があるのか自体信じられなかった。
彼らは時折おれのほうへと声を掛けているようだったが、何を言っているのかは分からない。
聞こえないのではないけれど、言葉としておれのところまでやってこないのだった。
ただ、こちらもぼやけた音が落ちてくるのだ。
「あの」
おれの声に、大人たちがこちらに視線を向けた、ような気がした。
そのうちのひとりが何かを言っているように見える。
音も聞こえるが、何を言っているのかは分からなかった。
おれが首を傾げていると、大人たちはまた顔を見合わせてい何かを話合いだす。
どうしたものか、と思っていると、おれは目の前の真っ暗なガラスの向こうにおかあさんが居ることに唐突に気付いた。
あ、と思った時には手が伸びていた。
夢ならば、今すぐにそのガラスを取り去ってくれればいいのに。
そう思いながら。
けれど、これはただの夢ではないようだった。
これは。
「何をやっているんだ」
その声に僕は顔を向けた。
誰だか分からない大人の群れの中、
今入ってきた男性が誰なのかは分かった。
「父さん」
父さんは僕を見て、怒ったような顔を湿気させて眉を寄せた。
皺がよるその顔が、泣きそうにも困っているようにも見えて、
どうしようもなくばつが悪くなる。
きっと僕が何かをしてしまったのだ。
だからお母さんもガラスの向こうにいるのだ。
そう思った。
そう思ったら、自身のまわりの空間が細く切れ目を生んだのが分かった。
たすく。
名前を呼ばれた気がした。
たすく。
ひとをたすける、という意味の名前だけれど、
すこしもそんなことはできそうもなかった。
おかあさんなのか、父さんなのか、誰がつけてくれたのかは知らないけれど、少しだけ申し訳ない気がした。
クラスのドアを開けると、いくつかの顔がこちらを向いた。
そのなかでたったひとりだけが、その顔を逸らさなかった。
おれが自分の席に着くのと同時くらいに、
いづるはおれの前にやってきた。
「おはよ」
「おはよう」
いづるが抜けてきた場所が、ぽっかりと空いたまま、そこにいた何人かがこちらを見ていた。
席に着き、鞄の中から教科書を取り出す。
「今日、帰りにいっしょに遊ばない?」
いづるの言葉に、思わず視線のほうを見た。
何対かの目がおれの答えを見ていた。
朝の光は白っぽく、クラスのカーテンを透かしてぼやける。
「いや、今日はいいよ、父さんが真っ直ぐ帰ってこいって言ってたから」
「そうだな。まだ本調子かわかんないもんな」
「うん」
その時いづるを呼ぶ声が飛んできた。
いづるがそれに手を挙げて答えた。
「じゃあ」
そう言って去っていくいづるに、おれは手を少し上げて答えた。
視線はもうおれを向いてはいなかった。
夢の中で、
僕はまた大人に囲まれていた。
何かを繰り返し言われているようだったけれど、
どれひとつとして言葉は理解できなかった。
「あの」
そう声を発しただけで、大人たちの顔は歪んだ。
いったい何が起こっているのか。
分かったところでどうすることができるというのか。
途方に暮れていた僕は、耳を塞いでいた。
すると周りがぐらぐらと揺れた。
大人たちが慌てふためく。
その瞬間だけは大人たちの顔がはっきりと見えた。
彼らの表情は恐れに慄き、恐怖に染め上げられていた。
「いづるはさ」
隣で本を読んでいる横顔に、おれは話かけた。
「うん?」
静かな階段の一番上で、薄暗い中、明り取りのために高い位置にとられた窓から太い筋になって落とされる。
その中に瞬く小さないくつもの埃が震えていた。
「どうしておれのことを気に掛けるの」
「え?」
いづるは本から顔をあげ、
驚いたようにおれの顔を見た。
「どうしてって、え?」
「だって、いづるは人気者だろ?おれに構わないほうがいいんじゃないかと思って」
「はあ?」
なにそれ、といづるは吐き捨てるように言った。
そして大きくため息を落とすと、じっとおれの目を見た。
「あのね、たすく」
「うん」
「俺はさ、誰かが楽しい学校生活をおくるために学校にきてるんじゃないの」
「はぁ」
「俺は、きちんと自分が気に入った人と仲良くしたいひとなの」
分かった?
そういづるの目は問いかけていた。
おれの頬が、じんわりと熱くなる。
それにつられていづるも目元が赤くなったように思ったが、
向こうははっきりそれが分かる前に本にその顔を埋めてしまった。
「たすくのこういうとこ、俺は時々腹が立つよ」
小さなその声は、腹が立つと言いながら、どこにも怒りを感じなかった。
おれは「そっか」と言って、手持無沙汰の両手で頬を冷やし、
高い天井の埃の舞いを見上げる。
時折、父さんが部屋にやってくるようになった。
それはけしておれが目を覚ましている時間ではない。
朝早く、仕事に出かける前だったり、
夜遅く、帰ってきたばかりだったり。
目を閉じてベッドに横たわったおれのそばに立ち、
父さんはただじっとおれを見ていた。
目を閉じていても、その目と目が合うような気がしたけれど、
父さんもそう感じているのかは分からなかった。
しばらくすると父さんは出ていく。
ドアが閉まる音を聞いて、
おれは呼吸がくるっていたことを自覚するのだ。
廊下の父さんに聞かれないようにと、
意識してそろそろと呼吸を整えるとき、
一体何からおれ自身は隠れているのだろうと考えた。
それはいつもまだらな眠気に手を引っ張られて中途半端なところで放り出されてしまうのだけれど。
父さんの顔があった。
いや、違う。
父さんの顔が、必死に何かを叫んでいる顔が、目の前の真っ暗なガラスに映っているのだ。
髪がぼさぼさで、見たことのない顔をしている。
目があまりに血走っていて、何本か血管が切れてしまったのではないかと思う。
僕は声を掛けようとするけれど、
声が出なかった。
視界は明朗なはずなのに、とても遠い。
不思議な感覚だった。
手を動かそうにも重たくてとても無理だ。
そもそも自分の腕があまりに遥か彼方に伸びていて、
とてもではないがその先端まで脳からの指令が飛ぶのにどれほどの時間がかかるのか分からなかった。
足はそれなのにとても近く感じる。
自分の一部としてではないけれど、
とても御しやすいものとして、そばにあった。
僕の足だった。
僕の手のはずだった。
それはとても感覚が遮断されたものとしてあった。
父さん。
お母さん。
僕は。
つづく、、、
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