余情 2 〈小説〉

 目が覚めた瞬間、私の体の感覚があることに心が凍り付いた。
目が、覚めた。また、この世界に。
 そう思った瞬間、体中から力が抜け落ちた。血液や体液、重力に従うものが体から失われてしまった気がした。
 明るい窓辺。カーテンが微かに揺れている。その色をぼんやりと眺め、それがありきたりな赤だと気づいた。次いで勢いよく腕を上げた。何の管にも繋がれていない。白い内側と、少しの日焼けを残した外側。短い爪。手の甲は幼く、そこには労働の疲れや、生活の積み重ねは見られなかった。
 まさか。
 そう思って、私は飛び起きる。見回したそこは、私の部屋だった。懐かしく、記憶の中で色褪せた。大した愛着も持たずに、それでも人生の半分は過ごした部屋。あまい黄色の壁紙。小学生の頃から使ってきた勉強机の上には、大きな卓上ライトが乗っている。ここは、私が学生の頃の部屋だ。
 私は、身体をそっと起こした。見覚えのある寝間着の黒と白のストライプ。中の下着も、母に買い与えられた可愛らしいレースの付いたものだ。
私は叫びだしたいのをこらえて、ベッドから立ち上がった。そしてやっと肌が感じる暑さ。今の季節が夏であることを知った。
 全身を写す鏡は持っていなかった。髪を整えるのも洗面所で、化粧を始めたのは働きはじめてからだった。
 勉強机の上のノートパソコンを開く。黒い画面をそっとのぞき込む。私が、確かにいた。しかしそれは、まだ少し丸みのある顎の線や、毛先に向かって広がった髪の毛の長さも、いつかの私だった。まだ殆どの自由を勝ち取る前の。
「今日は…」
 そして思いが及ぶ。ここは、この時間には、まだあなたが生きているのではないか。生きていることを否定して生きる前の、私なのではないか。
そう思ったら、思い至ったら、早々と体は動きだしていた。

 急いで着替えた服は、あの頃着ていた服で、今の自分にはまるで他人の服のようだった。懐かしさがあるようにも思うし、見慣れた傷のように疎ましい気持ちにもなった。
 紺色のTシャツにジーパン。サンダルのベルトをしめる。こんなに無防備に外に出ることに、ほんの僅か戸惑いが生まれた。
 玄関に置かれた靴箱に付属された姿見には、私が知っていた私が、確かに居た。それが勇気になり、その勢いでドアノブを握った。
 力を込めて押し開く。大きくなっていく隙間から、圧倒的な光が我先にと捩じりこむようにぶつかってくる。あつい。そう感じる体と、いつか確かに感じていた感覚なのだと懐かしがる気持ち。どこか優しささえ感じる、夏の空気だった。肺が大きく膨らむ。ジーパンのうしろ側のポケットに入れた定期を確認して、私は大きく足を踏み出した。

 アスファルト。雑草。ネコジャラシが揺れる。白、濃い灰色、なぜか淡い空の色。まだ一応朝なのだと分かる、開店準備をはじめている店の一群。電車の中は空いていて、私は呆けたように夢のような世界を目に走らせていた。
 緑の座席。くすんだベージュの吊革。文庫本を広げる男性。赤ちゃんを揺らす女性。学生と思われる若い男女のグループが、楽しそうに話している。今は夏休みなのかと考える。
 私の正確な年齢は分からなかったけれど、10年から13年前の時間にいるのではないか。直感的に、これは10年前だろうと強く感じる。あなたが死ぬ時間の、すぐそばにいる。体が、私の意識よりも明確にそれを感じとっているようだった。
 無意識に、剥き出しの腕をさする。よく効いている空調が、窓の外の光を拒絶している。
 私は、10年前の、あなたと約束をする前の、私なのではないか。その考えが私の頭の中で、外の入道雲のように膨らんでいくのを感じた。





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