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ボールいっぱいの野菜をほおばる

私の食べられるものについて

私は、肉も魚も(ほぼ)卵も食べません。
そういうと、たいていのひとに
「何故?」「何を食べてるの?」
と聞かれます。
菜食主義という人たちにはそれぞれの線引きがあって、そこには宗教や、
環境の要因や、健康面からの規制というのがあると思います。
私は、そのどれでもなく、心的要因というやつです。
それは記憶がある三歳のころから胸にあった考えで、
今もそれは概ね変わってはいない考えです。
でもそれは会ってあまり時間がたっていない人に話すには、
(いや、両親すらきちんとはわかっていないし、わかってもらえるとはおもっていない)ちょっと私の心の支柱の部分の価値観を話すところから始めなくてはいけないので、たいてい笑ってごまかしてきました。
でも、いい機会なので、ここで言葉として形にしておきたくなりました。


私はベジタリアン? こどものころ


ベジタリアン、という言葉を知ったのはたぶん小学生に上がったばかりの頃だったような。
私は、«なんとなくベジタリアン»だと自分を思っています。
小さいころ、それも三歳からの記憶がけっこうな鮮度で残っているのですが、その時分から私は肉や魚、卵を食べることに抵抗がありました。
抵抗があった、というのは、その頃は食べていたからです。
私以外の家族はみんな、祖母まで含めて肉食一家だったために、出される料理は常に肉、ということから逃れられない生活で、ひとり「食べたくない」とは言えなかったのです。
それでも「いやだ」「きらいだ」とは伝えていました。
野菜も果物も、ほかの子供が嫌がるものはことごとく食べるので「好き嫌い」とはあまり言われませんでしたし、特別な強制もされませんでした。
ただ、繰り返しますが、肉食一家だったので、肉を食べない日というのはありませんでした。
母は料理がすきではなく、ましてや自分の好きなメニュー以外作らないひとだったので、私のための野菜料理が出てくることはなく、添え物の野菜が多め、メインの肉を少なくしてくれるという体制で譲歩しあっていました。
祖母だけは、野菜の煮物や、みそ汁、あえ物をよく作ってくれたので、けして栄養が偏るということもなかった幼年期でした。

小学生に上がったころに、引っ越しで祖母と離れてからは、共働きの両親のおかげで自分の分のご飯を用意する知恵が少しずつついていきました。
そして小学校五年生のとき、私は両親に宣言したのです。

「私は、もう二度と肉も魚も食べない」

まあまあ大きくなった私に、両親とも
「まあ、自分でご飯つくるなら」
とゆるーく了承をくれました。たぶん、そんなこと言って続かないだろうと思っていたのも分かりました。
思い出したように焼肉に誘ったり、ハンバーガーに誘ったり。
好きだったでしょ?という感じで声をかかられるけれど、けして好きで食べていたわけではなかったんだよ、とそのたびに断りました。
小学校は給食だったのですが、先生にも私はその宣言をしました。
私は、変わり者だけど、話の筋は一応通っているな、という位置の子供だったので、先生たちは「これはもう決定事項でどういってもくつがえらないな」とすんなり諦めてくらました。
今思うと、私はまあまあ面倒な子どもだったので、よく先生がた許してくれたな、ということが沢山あります。これもその一つだな。
給食は、先生が了承してくれているので、大っぴらに食べられないおかずをほかの子どもに譲ることができました。
ハンバーグや唐揚げなどの人気メニューは予約が入るくらいでした。


本題 どうして私はベジタリアンなのか


私のなかの、命の基準というものを書きます。
それは記憶を蓄積しているものだと考えています。
石であったり、土であったり、水であったり。
今の科学ではそれがどこに蓄えられているのかわかっていないものも、
私には感覚として、かれらは記憶している、と確信しているものが、
私にとって命のあるものです。
その括りのなかには、まあまあほぼすべてが入ります。
ぬいぐるみも、本も、命を含むものだと思っています。
八百万の神と同じ考え方かもしれません。
その中で、また段階があります。
目に見えない断層の、表層にいるのが人間。
そのそばに動物、世界への深度を深める順番で、魚、虫、植物と続いていく。そんなイメージを持っています。
表層になるにしたがって、個になりたがるようにも思います。
個が強ければ、生への執着も強くなるのだと思っています。
私は、記憶のある限り考えていることの一つがあります。
「わたしは、どうして生きているのか」
「わたしは、どうして生きたいのか」
「本当に、私は生きていてもいいのか」
猫の背を撫でながら、こたつに入って足がじんわり暖まるのを感じながら、
砂場で地形を作りながら、平行してずっと考えていました。
今でもそれを考え続けていますが、昔のように「はやく答えを出さなくては」と焦る気持ちは薄まりました。
わたしに生きる目的ができたことと、責任が生まれたこと、そしてこの世界があまりに好きだからです。

考え、考え、分からないのに生きている罪悪感に、泣き出すこともありました。分からないのに、生きたいと強く願っていた生き物を殺して食べることが、苦しかったのです。
私は田舎育ちなので、豚も、牛も、鶏も、身近にいました。
それぞれがどんな形になっても、その肉に残った、生きたいという力は薄れないものだと感じていました。
一番考えが真っ暗だった頃、私は肉も魚も卵も食べるのをやめました。

今、生きることをある程度自分に肯定できるようになりましたが、
食べない時間が体に染みつき、できるなら生き物を食べないで生きられたらいいのにと、思わないではいられません。
誰かが食べていることに対しては全くそんなことは考えないことが不思議です。

これが私のベジタリアンの理由なのですが、これを初対面の人に語ったら
面白い顔をさせてしまうんだろうなあ、と思います。
「あ、わたしも!」
という方が、いますでしょうか??

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