John Adamsが語る「Must the Devil Have All the Good Tunes?」のエピソードほか
来る2023年6月11日、角野隼斗さんがJohn Adams(1947年2月15日生まれ、76歳)の「Must the Devil Have All the Good Tunes?」を飯森範親マエストロ(Mo.)の下、パシフィックフィルハーモニア東京(PPT)と共演することが発表されたのは昨秋と記憶している(ヘッダーはwikimedia commonsより)。
「Must the Devil Have All the Good Tunes?」は、ベルリンフィルのアプリ(日本語版)では「悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?」と訳されている。
なぜピアノ協奏曲に、このような映画かお芝居が始まりそうな、インパクトのあるタイトルを付けたのだろうか。そのエピソードを知りたくて色々調べていたら、YouTubeでJohn Adams自らが、タイトルや曲、自らの楽器経験、ピアノへの思いなどを語っている動画を見つけた。5分ほどの短いもの。
非常に興味深い話だったので、ざっと訳してみた。どちらかと言うと、イギリス英語の方が聴き慣れているためか、アダムズのアメリカ英語は、私にはところどころ聞き取りにくかった。以下、大きな解釈の間違いはしていないかと思う。
----(以下、拙訳)----
タイトルが作品の前に来る場合もあれば、作品がタイトルの前に来る場合もある。
「悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?」は、インタビューで出会った言葉でした。1950年代のある時点でカトリックの社会活動家ドロシー・デイとともに印刷されており、文脈を無視して聞くと、一種のキャッチーなフレーズで、恐らくチャック・ベリーによるものだと思いました。しかし、そのフレーズは、恐らくマルティン・ルターに由来するとされています。
ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団からピアノ協奏曲を作曲するように依頼されていたので、このフレーズはちょっと刺激的だと思いました。私はある種の悪魔的な性質と妙技を備えた特別なピアノ曲について考えていたところでした。暗いというほどではありませんが、彼らにとってはちょっとした皮肉のようなものです。もちろん、(フランツ)リストの作品「Totentanz(死の舞踏)」(からの着想)もあります。そして、このようなエッジのきいたものを書こうと思いました。アメリカン・ファンクもたっぷり入っています。
貴方の顔に
「ファンキー」、「神経質」、「ボットのような」--「悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?」は、これらの言葉から始まります。
(注釈(アダムズの発言の補足):上記の3つの言葉は、このピアノ協奏曲(多分、単一楽章と思われる)の第1セクションのタイトルのことを言っていると思われ、タイトルは「Gritty, funky, but in strict tempo, Twitchy, bot-like」である。CD音源があるユジャ・ワンとロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団の演奏(世界初演は2019年3月7日)を聴いてみると、最初は低音域で悪魔がうめいているようでもあり、途中から壊れたロボットが戯けているような雰囲気で、ホンキートンクみたいなアップライトピアノとの掛け合いはユーモアさも感じられ、金管楽器との対話含めて、このタイトルが意味することが後からじわじわ理解できてきて、実に楽しい。)
(拙訳の続き)
この、ピアノによるとてもファンキーな表現が、この曲の雰囲気を決めていきます。それはとても衝撃的なオープニングです。そして初めて演奏を聞いた時、本当に楽しかった。こんな始まり方をするピアノ協奏曲は、他にはない、思うような始まり方をします。
傷(Wound)
私たちは皆、成長の過程で何らかの形で多少の傷を負うと思っています。ありきたりな話に聞こえるかもしれませんが、私の傷は、ピアノを習ったことがないことでした。私が実際にピアノを習おうとするには大きくなりすぎていて、家にはピアノがありませんでした。でも、私はクラリネットがそこそこ上手になり、幼い頃に指揮をした経験もありました。
でもピアノを弾けないことは本当に大変でした。まず第一に、私にとってハーモニーを学ぶのは非常に困難でした。ピアノの前に座って和音を組み立てることができなかったからです。でも、私がこの「傷」という言葉を使っているのは、人間は時々、何かを失ったり、欠けたりすることがあるからだと思っているからです。
ピアノが弾けないということは、恐らく、私がそうさせられた、そういう運命だったのだと思います。音楽を別の方法で、より精神的な面から想像するように、と言われたようでもあります。そして、作曲家にならなかったら、本当に良いピアニストになっていたのか、とも、時々考えます。たぶん、私は別のスタイルのピアニストになっていたかもしれません。ある意味、それも幸せだったかもしれません。
アメリカのポピュラー音楽
私は常にバルトークからインスピレーションを受けてきました。何故なら、バルトークは膨大なインスピレーションと素材を発見しているからです。それは、彼の民族音楽であり、ハンガリーのポピュラー音楽と呼ぶことができると思います。
私は、自分が生きている時代に生きているアメリカ人だ。--- 私の民族音楽とは何か?私(にとって)のバルトークとは何か。それがアメリカのポピュラー音楽だ--- それがジャズだろうが、ロックであろうがね。
まさにこの素晴らしい、力強い鼓動感があります。私たちのアメリカの音楽は次のような傾向があると思います。グルーヴを感じるには、ブギーになりがちですが、動きやエネルギーの感覚があって、それは常にそうなんだと思います。最初から私の音楽を象徴するものでした。
おわりに
私は作曲をする時、ピアニスティックには考えていません。例えば、バルトークのピアノ協奏曲を聞くと、私達は、作曲家がきちんと楽器を理解していることを理解できます。偉大なピアノ協奏曲のほとんどは、非常に優れたピアニストによって書かれて来ました。
私がピアノを弾くことができなかったという事実について何かあるとすれば、もし私がピアニストだったら、(今の)私が決して思いつかなかったアイディアを思いついていたに違いない。
「ハレルヤ・ジャンクション」や「マスト・ザ・デビル」などの(ピアノ)曲を私は作ってはいます。「フリジアン・ゲイツ」、「グランド・ピアノラ・ミュージック」などの初期のピアノ曲は、ピアノの楽譜の書き方が恐らく個性的で、ある種の特徴的な動きがあります。動き(モーション)は私の音楽のDNAの一部なんだと思います。
----(インタビューの拙訳 終わり)----
いろいろ考えさせられる内容だった。ポストミニマルミュージックのフィールドでの作曲家として、オペラ、オーケストラの曲を沢山作曲し、欧米で絶賛されてきたアダムズが、ピアノを弾けないことにある種のコンプレックスを抱いているとは。。
でも、ピアニストではないから、ピアニズムみたいなものを意識せず、自由にピアノ譜を書けたのかもしれない。ピアニストにはこれは普通あり得ないと思うような楽譜なのかもしれないが。結果、聞いたことがないような斬新なハーモニーやリズムが生まれてくるのかもしれない。
改めて、このピアノ協奏曲の3つのタイトル(恐らく単一楽章で3つのセクションがあるのかと)をここに載せておく。
Gritty, funky, but in strict tempo, Twitchy, bot-like
Much slower, gently, relaxed
Piu mosso: Obsession / Swing
(Piu mossoは音楽用語で、これまでより速くの意味。Obsessionは強迫観念という意味の英語)
初演は、ユジャ・ワンとロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団によって行われている(DGがアップしている動画はこちら)が、昨年12月には、角野さんが昨夏エジンバラで対談したヴィキングル・オラフソン(対談についてはこちら)がロウヴァリ指揮・ベルリン・フィルとの初共演で披露しており、ベルリン・フィルのアプリ(有料)で鑑賞可能だ。
ユジャ・ワンのファンキーっぷりは、映像を観なくても音からでも想像しやすい。でも、普段、バッハ、モーツァルトなどを弾く落ち着いた雰囲気のオラフソンが、身体全体を使い、格闘技に臨んでいるかのようにピアノに向かっている姿は、なかなか迫力があって、圧倒された。彼は楽譜(多分iPad)を見ながら演奏をしていたが、恐らくほぼ暗譜はしていたように思う。オケとの合わせ、というか、絡み、対話がなかなか複雑なために、万が一に備え、楽譜をおいておいただけかと、素人には思えた。
通称「悪魔」ピアノ協奏曲は、特に最初が、第一セクションで衝撃を受ける。第二セクションの抒情的な旋律は束の間の静寂、間髪入れずに始まる第三セクションは、アダムズの他の曲でも見られるお祭り騒ぎで、ピアノの遊び心が炸裂、鍵盤を全域使って飛んだり跳ねたり超絶技巧が続くなか、木管、金管、打楽器軍団も捲し立てるが如く、ピアノ独奏に絡んできて、聴いている方も身体が動き出してくる感覚を味わう。このリズミカルで、エネルギーに満ちた華やかなピアノ、オラフソンが弾く姿に魅了され、角野さんの生演奏が楽しみになった。これは単に聴くだけではなく、各パートとの絡みも観て楽しむコンチェルトだと思った。
5月24日、オラフソン、今度はプラハで、なんと、Jonh Adamsの指揮で、チェコ・フィルと「悪魔」を共演したようだ。以下はチェコフィルのインスタ。
同時代を生きる作曲家・指揮者のもとで、ピアノ協奏曲を弾くというのは、どういう気持ちなんだろうか。嬉しさと緊張が入り混じった複雑な感情なんだと想像するが、やっぱりお互いにこの上なく幸せなんだろうな。インスタの写真を見る限り、オラフソンもアダムスも充足感に満ちた表情をしていた。
オラフソンのインスタによると、2025年の初めに、John Adamsからピアノ協奏曲を献呈されるようだ。この2人の出会いも気になる。
6月11日の角野さん+飯森マエストロバージョンはどうなるのか。あのCateen節が炸裂したラプソディ・イン・ブルーのプレミア公開動画を見た直後でもあるからか、期待に胸が膨らむ。
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そして、6月後半から7月下旬にかけて、バルトークピアノ協奏曲3番のツアーがあり、私もついに角野隼斗のバルトークを聴ける(涙)私には悲願のバルトークだ。アダムズもインスピレーションをたくさん受けたというバルトーク。こちらも待ちきれない。
【追記 2023.6.11】
6/5に高坂はる香さんが執筆された飯森マエストロと角野さんのインタビュー記事で、アダムスのピアノ協奏曲について語られている。
こちらに加え、ピアニストのかてぃんさん自身が、6/10のアダムス初演(大阪シンフォニーホール)の朝、noteを公開してくれた。6/7(水)のかてぃんラボ(YouTubeのメンバーシップ)の話の要約に加え、参考音源も紹介してくれており、勉強になった。
ラボやnoteのおかげで、今日のサントリーホールでは、色々難しいことを考えず、"純粋に"アダムス独特のピアノ協奏曲の世界を堪能できた。私の感想はごく簡単にインスタに書いてみた。
(終わり)