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改めて湊圭伍を読む/飯島章友(チラ見せあり)

「川柳木馬」の第178号(2023年12月号)が発行されました。

「川柳木馬」は四国、特に高知の方々が中心の季刊誌で、発行人は清水かおりさん、編集が山下和代さんです。木馬誌は昭和54(1979)年に設立されたので、もう40年以上の歴史があります。昔の木馬誌については「週刊川柳時評」の「川柳木馬の30年」あたりを参照なさってください。

さて、今号は木馬誌のライフワークたる「作家群像」の記事が掲載されています。これは柳人をクローズアップする特集で、取り上げる柳人のプロフィール・作者のことば・作者自選60句・二編の作家論からなっています。

今回取り上げられた柳人は、湊圭伍さん。「川柳スパイラル」誌でお馴染みですが、なんと! 木馬の会員でもあるんです。

その湊さんの作家論を今号に寄稿したのが、小池正博さんと、わたしく飯島章友なんです。私は以前、榊陽子さんの作家論として「川柳プロレス中継 ―榊陽子VS川柳―」を書かせていただきました。また私自身も「作家群像」に取り上げていただいたことがあります。徐々に1970年生まれ以降の世代も「作家群像」に取り上げられるようになってきたのですね。2年前には柳本々々さんも登場したことがありますし。

今回、私が書いた湊圭伍論は「改めて湊圭伍を読む」というタイトル。どんなことが書かれているのか。ほんの一部分ですがお見せしますね。

  靴音から遙かに閉じゆくみずうみ
  そら耳のつづきを散っていくガラス
 
 以前は所謂「現代川柳」界隈で、「意味に帰着しない川柳」という類の発言をよく聞いたものだ。だが、言葉にはどうしても意味が付いてくる。仮に言葉が意味に帰着しないのなら「                 」という十七音分の空白と同じことになりはしないか。
 とは言え、引用した二句は、詩歌によくある省略を補いさえすれば、意味が取れるようになる。言葉とは、言外の意味も生起させるからである。だから前言を翻すようだが、実は先の十七音の空白もそれ自体から暗黙的に意味は生起する。掲句も、(以下略)

どうでしょう、すこし読みたくなりましたか? 湊圭伍ファンの方をはじめ、木馬178号を読んでみたいという方は、私にメールなどで連絡をくだされば、木馬編集部にお取次ぎいたします。余っていれば見本誌をくださるとのことです。私への連絡先→メールアドレスは、私のnoteのホームの自己紹介欄に載っています(suplexのアドレス)。

あと小さな声で言いますが、見本誌をご注文するときは、マナーとして、誌代と郵送代はお幾らですか? と自分から言ってください。