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『水脈』第64号――『成長痛の月』の読み合い

いささか遅い情報ですが柳誌『水脈』8月号(第64号)が発行されています。同誌は、北海道を拠点にする「川柳グループ水脈」の季刊誌です。
 
今号の水脈誌は、私にとってとても嬉しい記事があります。それと言うのも、「気ままにらんはんしゃ〜水で割って『成長痛の月』〜」という記事が掲載されているからです。内容としては、私の句集の読みを、西山奈津実さん・四ツ屋いずみさん・河野潤々さんが、なんと! 13ページにわたって鼎談してくださっています(四ツ屋いずみさんは都合により途中まで)。一冊の句集を読む記事はあまたありますが、これだけページ数を割いたものは殆どないと思います。私はもう、お三方が暮らす北海道に足を向けて寝られませんよ!
 
13ページというだけで凄いのですが、さらに胸が熱くなるのは、私の句を知的に分析しながら読んでくださっているということなんです。
 
娯楽って、まずは好きか嫌いか、面白いか面白くないかの世界だと思います。たとえば、コントとか漫才は、腹がよじれるくらい笑った後に「ああ面白かった」の一言で十分ですよね。彼らが陰でどんな努力や工夫をしているかまで殊更分析しなくてもいい。これは他の娯楽――映画やスポーツ、演劇、アニメ、小説、絵画、歌などでも同じだと思います。私の句集だって、オモシロい句はあるかな〜ってパラパラと読んでもらえれば、それだけで有難いのです。
 
とは言うものの、娯楽には、知的に楽しむという次元があるのも事実です。表現方法や技術を分析したり、解説してもらったりして楽しむ側面ですね。だからこそ、映画などのビデオソフトには関係者によるオーディオコメンタリー(音声解説)があるし、NHK・BSには「BSマンガ夜話」というマンガ考察番組もあったのでしょう。スポーツで言えば、たとえばイチローがメジャーリーグに活躍の場を移したとき、日本にいた頃とは打撃のフォームが変わっていました。日本時代の振り子打法とメジャー時代の打法との違いについて、専門家が分析するのを聞いたとき、知的快感があったのを覚えています。

加えて言うと、分析される側の当の本人(文芸ならば作者)も、自分の技術や工夫を知的に分析されると、報われた思いがするものです。また、作者本人が無意識にやっていた技術や工夫を指摘してもらえることもあります。そんなときは自分自身を発見する喜びがあるものです。
 
以下、全体からするとほんの一部ですが、鼎談を引用してみます。

 仏蘭西の熟成しきった地図である
いずみ なんといっても「仏蘭西」の漢字表記と、「熟成しきった地図」には、古く色褪せて茶色っぽくなった古地図に、古さの匂いとかいろんな人の指紋の跡とかが浮かび上がってきて、なんともいいなって。匂いの伝わってくる素敵な句だと思いました。
潤々 オラは、漢字の「仏蘭西」に明治の頃をイメージした。その頃のフランス、例えばパリでは街を近代都市に作り変えた時期。「仏蘭西」「熟成」「地図」から、従来からの熟成しきった思想や指針、方向性のようなものが「地図」に描かれているのかなって気がした。
奈津実 私は単純にとってしまって、「地図」という言葉のユニークさで、この句が成立しているんじゃないかと思ったんですね。すばらしいワインや美術、建築などから、フランスの、正しい大人の国としての受け取り方ができると思うんですね。それで「仏蘭西の熟成しきった大人の国である」と読むと、それを一枚の地図でひとつにくるんだ句になっているのではないかと。

句自体は、難しいことが何も書かれていないと思います。それでいて、「仏蘭西」「熟成」「地図」からイメージするところは三者三様。そこが面白いんです。一読明快だからって、一つの意味・一つの感じ方にまとまるわけではない。それを改めて感じた次第です。

 あれが鳥それは森茉莉これが霧
潤々 ……あれ、それ、これの「れ」と鳥、森、茉莉、霧の「り」は、韻を踏みながらの言葉遊びと思うけど、鳥、森、霧とイメージで結びつくもので繋げながら、森茉莉で遊んでいる。鳥から森を持ってきたときに、森鴎外をイメージし「鴎」で結びつく。だけど森鴎外を書くと韻律がくずれるので、娘の森茉莉を代入し遊び心を残したのかな。(中略)また、言葉の裏側に親子の会話を思い浮かべた。
奈津実 ……森茉莉をネットで調べたら、同性愛者をテーマにした「恋人たちの森」などの作品を出しているよう。でも、そういうのがわからなくても、力技で納得させられてしまう良さがあって、これも五七五のおもしろさだなと。言葉の流れとリズム、何より「森茉莉」がいい。「り」の韻だけでなく、マ行のまろやかな感じが、読み手に違和感を感じさせない。
いずみ ……『あれが鳥それは森茉莉これが霧』のとなりに『鳥葬や劇中劇に差し掛かる』があるけど、これも「鳥」つながりだと思って、並べ方がやっぱり素晴らしいし、森茉莉や森鴎外となると、劇にもなっていたりするのかなって、それを劇中劇につなげているのかな。選び方、載せ方がおもしろいと思った。

韻やイメージの繋がりについて分析していただいたパートです。裏側に親子の会話がある、マ行のまろやかな感じがある、森茉莉や森鴎外が劇中劇につながる――こういったところにアッ! と思いました。無意識レベルでやっていた自分の創作法を発見した思いがしたからです。

 空をぱりんと割る冬花火
いずみ ……冬の夜空はそんなに晴れてないようなイメージがあって、曇り空に冬花火があがるっていうのがイメージされて、無機質なところに色が灯り、希望が出てくるような感じがして、「ぱりんと」の表現が面白い。もしこれが北海道を舞台にしていたら、「ぱきんと」になるんじゃないかなと思って楽しんでいた。
潤々 晴れて星が出ているイメージで読んだのね。冬花火があがり、その衝撃で空が割れて星がパラパラと崩れ落ちてくる様を思った。北海道の冬空をイメージし、寒さに緊張した星空が外部からの刺激でもろく崩れ落ちる様子に、ひとの感情のもろさも表現しているのかなっていう思いで読んだ。
奈津実 ……いずみさんの言う「北海道ならぱきん」もよくわかる。でも、「ぱりん」というのは何かしらの感情に訴えかけるものがあるなと。作者は何かを壊したいのかもしれないと深読みをすれば、冬花火が自分でありたいという思いもあるのかな。

いずみさんの「ぱきんと」のご指摘がとても面白かった! 本州人の私には思いもよらないことでした。助詞一字の違いで句ががらりと変わることは多いですが、オノマトペでも一字の違いは大きいのです。人名でも「長州力=ちょうしゅうりき」を「ちょうちゅうりき」「ちょうしゅうちき」にすると、印象が変わりますよね(長州さんごめん)。
 
西山奈津実さん、四ツ屋いずみさん、河野潤々さん、まことにありがとうございました! 『水脈』は、たいへん活気に満ちた柳誌だと思います。代表の浪越靖政さんが作家論や句集評を毎号書いておられますし、作品評も外部・内部の二通りが掲載されています。共同創作の記事やイメージ吟の記事もあります。また最終ページには「水源地」という川柳時評があり、そのアンテナの広さに驚かされるのです。
 
なお、いずみさんと潤々さんは、最近発行された『川柳カモミール』No.7の記事、「第五回カモミールネット句会」に参加され、選んだ句への評を書かれています。今回の水脈の鼎談やカモミールの評を見て思ったことがあります。私も一つの句を数人で読み合う記事を書こうかなと。意欲がわいてきました。
 
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