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【稲村ゼミ】一限「音楽基礎#1」

突然始まりました、稲村彰人の自主ゼミナール「稲村ゼミ(仮)」へようこそ。こちらのコーナーは、学歴はないけど知的好奇心だけはつねに旺盛なわたし稲村彰人が、毎回さまざまなテーマについて知識と考察と教養を勝手に皆さんと一緒に深めていくゼミナールになります。とはいえ「独学こそ学びの基本」だと思っているので、基本的には、しばらく一人で何かをぶつぶつ語り続けるだけの場所になりそうですが、ともに研鑽を積んでいく学友はつねに求めていて、機を見ていずれは「輪読会」や「読書会」のようなものも開いていきたいという構想はあります。

ちなみに本ゼミナールを開設するにあたっての心得のようなものは、語りはじめると非常に長くなりそうなのでまた後日。ザッと大筋としては、人文・社会・自然科学といった既存の学問領域には囚われず、リベラル・アーツの本来の語義(="自由"であるための"技術")の精神に忠実に則りながら、実生活と地続きな形で結びつく知、すなわち教養を深めていきたい、という心がけでやっていきたいと思います。

はい。というわけで早速ですが、今回のテーマは、音楽。最近の稲村彰人の人生においてホットなトピックといえば、やっぱり音楽活動。まったくの初心者の状態からバンドに加入して、早五ヶ月が経とうとしています。演奏を通じて他人前に立つ経験を少しずつ重ねて、気が大きくなったのか最近は作曲?のようなものにまで手をつけ始めている私ですが、やり始めると音楽というものは非常に奥が深い、ということが肌で分かり、日々、知的好奇心をそそられています。

やってみて思った音楽の良い点は、学んだことをすぐに実践して確かめられるところです。物理や化学ではそうはいきません。古典力学ならまだしも最新の自然科学は高度な実験装置(ハイパーカミオなんとかとか)によって支えられている面が非常に大きいので実験はおろか実験対象を観測すること自体が容易でない。「仮説・実験・理論」が学問するにあたっての基本中の基本ですが、対象があまりにミクロだったりマクロだったりすると専門外の者にとってはどう関わればいいのか分からない。ですが、音楽は違います。どんな人にとっても、関わらずに生きていくことが難しいくらい身近なものです。

私も、まさか演奏する側になるとは思ってもみませんでしたが、いつも音楽は私の実人生のすぐ隣りにありました。臭いことを言いたいわけではありませんが、楽しいときだけでなく、悲しみに暮れているときや誰にも癒せないような孤独(「誰かに癒されてなんかたまるか」とも思っている)に囚われているときも、音楽は近くにありました。そして、おそらくそれは誰にとっても同じことなのだろうと思います。人間にとって音楽とはそういうものなのだろうと思います。

さて、そんな音楽ですが。演奏する側に立ってみると、当然といえば当然の話ですが、その技術的な側面に向き合わざるをえなくなります。要するに、上手いか下手か。上手くなければ演奏してはならないわけではないはずだけど、下手なまま演奏することには非常に抵抗がある。この抵抗感。それは一体なんなのか。

あらゆる表現行為・表現物に言えることですが、客観的に他人に見られるものである以上そこには必ず個人の好き嫌いとは違った「優劣」という基準が生まれてくることになります。「上手い・下手」とか「売れる・売れない」とか「正しい・正しくない」とか。

人間関係でも似たようなところがありますが、「一対一」で”こと”が起きている限り、ある程度は「好き・嫌い」という個人の思いだけで話を済ませることができます。が、それが「一対多」もしくは「一対一対一」のような状態になると、途端に事態が錯綜して、それに伴って個人の思いも複雑化していくところがあるように思います。

仮にもし<私>と<あなた>しかこの世にいなければ、「<私>は<あなた>を好きor嫌い」以上終了で、すべて話が終わります。が、実際には、<私>と<あなた>以外にも<彼>や<彼女>や<彼ら>や<私たち>が存在するわけで、それも含めて話をすると、例えば「<私>が好きな<あなた>が<彼女>を好きなことが許せない(=嫌い)」とか、そういうややこしい事態が生まれることになります。

すべてを「一対一」で、「好き・嫌い」だけで判断できれば簡単なのかもしれないけれど、そういう風に割り切れないところにこそ人間関係の複雑さがあるし、苦しみもあるし、また、味わいもあります。

話が逸れました。何の話をしてたんだっけ。

そうでした、音楽の話でした。音楽活動を他人前でする以上、技術的な面に向き合わざるをえなくなるという話でした。

音楽活動(=表現物を公開したり他人前で表現行為を実行したり)も一つの人間関係の形として捉えると、「一対多」もしくは「多対多」(バンドで演奏しているとき)という構図になります。さきほど人間関係についていくつか持論を述べましたが、その仮説を音楽にも適用すると、「一対一」の状態でないからこそ、そこに第三者的な目線としての「上手い・下手」や「売れる・売れない」などの「優劣」の基準が生まれることになる、ということになります。

まどろっこしく話してしまいましたが(でも学問ってそういうものなんだと思っている)、要するに「この世には良い演奏と悪い演奏というものがある。聴いた人が感動する演奏が良い演奏である。人間は、演奏技術の素晴らしさに感動することもあれば、演奏者の振る舞いや気迫に感動することもある。演奏する以上は、良い演奏を目指したい。どうすれば良い演奏ができるのか」という話がしたい!(本当のことを言えば「良い演奏も悪い演奏もないのではないか」というところから疑って考えたい気持ちもありますが、話が無限に前に進まなくなるので、こらえます)。

「どうすれば良い演奏ができるのか」という問いには、さきほど挙げた人間の感動の仕方によって、二つの答え方ができます。一つは、演奏技術を磨くこと。もう一つは気迫。

まず演奏技術(=歌ったり楽器を弾いたりパソコンに打ち込んだり)を磨く。そのためには、知識と技術と経験、なにより練習。上手い人は果てしなく上手い。その道を極めようと思ったらもう全人生を賭けなければならないし、賭けたとしても到達?できるとは限らないから命がいくつあっても足らないし、命を賭けてまでやりたいか、と聞かれたら「考えさせてくれ」と言いたくなるし、そもそも「命を賭ける」という事態が現代社会においてほとんど起こりえないシチュエーションなのでリアリティがなくてよくわからない、とりあえず上手くはなりたい、超上手くはなれなくても人間のやっていることである以上できないことではないはず。というわけで、まずは足元から一歩ずつ。

次に気迫。気迫に関しては高めようと思っても高められるものではない。本物か偽物かを見抜く能力は誰にでも備わっている。本当に何かを伝えようとしている人の目が、どんな色をしているか。本当に何かを叫んでいる人の声が、どんな音をしているか。本当に何かに喜んでいる人が、どんな風に笑うのか。その分別くらい誰にでも付く。要するに他人前に立つということは日頃の行いがすべて出るので一瞬たりとも気を抜いて生きられないわけだけど、現代社会は先ほども言ったように経済格差や環境問題や人権侵害や国際紛争など様々な不条理がありながらも実際の日々の生活自体はどんどん「安心・安全・便利・快適」を目指す方向に進んでいて、日本においては今のところ戦争もなく、これからも多分ない(かどうか知らないけどそんなことはたぶん誰も知らないし、一庶民の私が心配したところでどうしようもないし、そもそも心配していないし、心配しなくても何も悪いことなんかない、なんなら心配しないことが何よりの平和への貢献だと思うし、そんなことするより他に色々やることがいっぱいある)ので、気を抜いて生きられないと言われたところで毎日修行して生きるわけでもなく、そもそも修行とは自分のためにのみするものであって何かを目指してやるようなものでもないから結局は一日一日良いときも悪いときもあるけど毎日をしっかり生きていくしかないということになります。しっかりとは何ぞや!!!

というわけで、話が逸れすぎて最初に書きたかったことをまったく書けなかったのだけれど深夜4時から書きはじめてもう朝の9時半になったので、突然ですが第一回はこの辺りで終了とさせていただきます。

次回はもっと書きたかったことを書きたい!

最後まで読んでいただいて本当にありがとうございました!!!!!