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【朝渋ログ】『ハートドリブン 目に見えないものを大切にする力』(塩田元規さん)


4月3日に行われた朝渋再放送、アカツキ代表の塩田さんの回です。

Twitterに投稿した内容をブラッシュアップして、残しておきたいと思います。


自分の気持ちに素直になることで、誤解や想像などのコミュニケーションコストを削減可能

"check-in"って知ってますか?

僕は知らなかったんですが、お気持ち表明みたいな場を指す言葉らしいです。

お互いが思っている感情を素直に吐露できる場所って意外とあるようでない。

一緒に働いている仲間なのに、今日どんな気持ちで仕事してて、やり遂げた成果に対してどんな感情を抱いてるのかわからないなんて、なんだか寂しいですよね。

普段むすっとした表情の人でも、心の中では楽しいと感じているのかもしれない。

いつもイキイキデスクに向かっている同期が、実は内心焦っているかも。

相手の気持ちがわからないから、忖度をして、変な誤解が生じる余地ができてしまう。

その誤解が後々大きな歪みになってしまわないように、やはり気持ちには素直になるべきだろう。というのが塩田さんの考えのようです。

僕もそれには共感しています。

このお話のおかげで、自他を問わず「感情を丁寧に扱う」ことは大切だと学ぶことができました。

相手に対するイライラを感じる時ってどんな時?

疲弊し切って言葉が刺々しくなっている相手に苛立ちを覚えるとき、

「あ〜、自分も疲れる時ってあるよな〜」と思えば許せるかもしれません。


自分が見たくないもの。これを受け入れることで、他者を許す器が大きくなる可能性があります。


自分が目的を見つけるのではない。目的が自分を見つけるのだ。

大袈裟に言えば、コペルニクス的転回ってやつですね。

よく巷で言われているのは、手段の目的化

例えば、美味しいラーメン屋さんを開店したい!というゴールを決めたとして、まずはいろんな店のリサーチに漕ぎだすとします。

ここでは「美味しいラーメンと認識されている(繁盛している)店」はどんな要素を持ち合わせているだろうか、と一生懸命調べます。

そのうちにあっちも、こっちも調べ出し、美味しいラーメン屋にはこんなお店があって、こんな要素がある!とわかりましたが、結局「あれ?自分ってどんなラーメン屋にしたいんだっけ?」とわからなくなってしまう。

本来、美味しいラーメン屋を作るための手段であるはずの調査が、「何のために」行われているのかわからなくなる事例ですね。


ゴールに向かってやるべきことをやるだけだ、と様々な成功者は語りますが、それもそのはず。

その過程で適切な手順を自然と踏んでいるからです。

先の例で言えば、「美味しい」「ラーメン屋」とは何か?を要素分解し、突き詰めていく必要があります。

美味しいってなんだ?何で決まるんだ?誰が決めるんだ?スープ?たれ?麺?利便性?立地?接点回数?

ラーメン屋ってなんだ?ただ麺を啜って空腹を満たすだけの場所なのか?仕事疲れのサラリーマンがオアシスとして一時を過ごす場所として考えるのか?そもそも売っているものは?ラーメン屋ってラーメンを丼で出さなきゃいけないのか?通販やレシピサイトでノウハウを売るのもラーメン屋にできることではないか?そもそも自分はなぜラーメン屋を開きたいのか?つけ麺やとか油そばやじゃダメなのか?

…と軽く数分考えるだけで、考えるべき要素がたくさん出てきます。

きちんとゴールを考え抜いた先で、目的が自分を見つけてくれるんでしょうね。(もはや物は言いようって感じがしますが)


言葉は認知のフレームワーク。

(*言葉を学問的に理解しようとすると、あまりにも学際的になって収拾が付かなくなるので一旦置いておきますと…。)

「"ハートドリブン"は意図的に解釈の余地を残した言葉です。」

と塩田さんは言いました。

他人が見ても同じイメージを持てるような、”解像度”の高い言葉にせず、人による意味のブレ(1/fの揺らぎ的な)を残したと。

例えば、「寝返りをうっても高さ調節が容易な設計の高さ違い枕」とか「Vネックの薄手半袖Tシャツ」のような具体性のあるものであれば、誰もが似たようなところに行き着きますが、

「寝具」とか「洋服」と言うと、だいぶカテゴリーの枠が広がって、その分イメージできる範囲が広がると思いませんか?

そんな例えと同じように、読者一人一人の「ハートドリブン」があってもいいんじゃないか、という塩田さんの思想には人間性がよく表れているなあとしみじみ思いました。


*余談ですが、今話題の星野源さんの「うちで踊ろう」という曲、あえて「家」ではなく「うち」としているのは、共感可能な人の範囲を広げている点で素晴らしい言葉のセンスをしているなあ、とこれもまた驚きました。

身の上も、来歴も、言葉も、国も違うけれど、どこかの中にいる人、いたいと思う人に漏れなく届く。しゅごい(語彙力)。

なので、英訳はDance homeではなく、Dance inside。(ソースはTwitterで見た誰かのツイート)

"選択"はラク。統合は難しいがやる価値あり。

実は、「選択できる状態」にあるのは幸運なことで、ひょっとするとラクなのかもしれません。

「選ぶ」という行為に最終的に必要なのは、イエスかノーです。そのためエネルギーは比較的少なく済みます。

例えば、ランチを一緒に食べようと街を歩きながら相手と相談しているときに、

「何食べたい?」「何の気分?」

と聞かれるのと

「中華とイタリアンならどっちがいい?」「私/僕はあんまりお腹空いてないからカフェでもいいかなと思うんだけど、どう?」

と聞かれるのとではまったく受け手が受け取る重みが違いますよね。

とまあ、選択できる状況が恵まれているよねという話はこの辺にして…


なぜラクか。それは、何かを切り捨てている点です。

あえて先の例を取りあげるなら、相手が「中華がいい!」といって相手を尊重して中華にするのは選択ですし、「イタリアンとフレンチどっちがいい?」と聞かれてどちらかを答えるのも選択です。


統合とは、「私、中華かイタリアンがいいな〜」と「僕は卵料理食べたいかも」のような異なる意見があった時、

(卵料理かあ〜、中華ならチャーハンとか天津飯?イタリアンかはわからないけど、オムレツもアリかも。なら洋食屋さんでもいいかな)

(中華かイタリアンか…。卵料理ならなんでもいいけど、リーズナブルに行くなら中華かな?)

のような個々人の思考と

「卵料理かあ。中華とイタリアンならどっちでも大丈夫そうだけど、洋食屋とかどう?イタリアンっぽいのも行けそうだし。」

「いいの?値段でいったら中華の方がリーズナブルそうだし、中華がいいならそっちでもいいかな〜って思ってた!」

のようなすり合わせを経ることです。

そして、最終的に二人とも納得できる結論に行き着くことを昇華と言います。

(他にも譲歩とか妥協とか…いくらでも言えますが、あくまで二人にとって元々の意見+アルファの結論にたどり着いているので、よしとしてください…)


二項間の葛藤を昇華させて新たなステージへと進むことができるヘーゲルの弁証法に拠って考えれば、次のレベルへ到達するためには「選択」ではなく「統合」が欠かせません。

この考えに基づけば、何か一つに振り切ってしまうと、ある局面で上がり切らなくなってしまう可能性も想定できます。

なぜならそこに他者(物)とぶつかるプロセスがないから。

分子間にはくっついているためのエネルギーが必要なように、何かと何かをうまく組み合わせるには苦労が伴うものです。

このような統合が必要と感じられる場面では、なるべく避けずにチャレンジしていきたいですね…。

(別に選択を悪いものと言いたいわけではありません。場面に応じて使い分けましょうということです。)


Feelの時間をつくる。

話は一転。目を閉じて"思い出す"ものを見つめる大切さについてです。

「To feelリスト」とイベント中は呼ばれていました。

多くの人はタスクに追われすぎている。つまり、To doリストを背負っている。

それでは、あまりに気持ちを隅に追いやり過ぎて、なんだか辛くない?という話だったのですが…


これ、すごい刺さりました。

自分が物事に大して抱く感情って普段は顕在化しづらいですが、実はとっても大切で。

特に人間関係にタスク志向が強まってくると、ギスギスするなあと体感としてきました。

例えば、「安心するから声聞きたいなあ」と思って彼女に電話するのと、「彼女がして欲しいっていうから毎晩電話しなきゃ」と電話するのとでは、同じ電話でも全く意味合いが違ってきます。

ギスギスしてきたなあ、とか、な〜んかやだなあと感じてきたら、一度立ち止まって

「自分は今この行為をして/物事と向き合ってどういう気持ちだろうか」

と考えてみると、次にとるアクションって意外と違ったものになるかもしれませんね。

おわりに

いかがだったでしょうか。

ツイートのまとめの項目はいくつか減らしての編集でしたが、興味深い学びがいくつもあったので、参加してよかったなあと思った回でした。


それでは次回のアーカイブをお楽しみに!



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