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[山岳小説]カンチェンジュンガに降る雪3


 
藤崎は、自宅で次回の連載原稿を書いていた。原稿から解放されておそい昼飯を食っていた時、玄関の呼び鈴がなった。
「こんにちは。藤崎勉さんですね」
「あなたは?」
「外務省の近藤といいます」
「外務省のお偉方がなんの用です」
「単刀直入にいいます。カンチェンジュンガにもう一度登っていただけませんか」
「なんだって!」
「こんど政府の肝いりで、日本人だけのカンチェンジュンガ北東壁制覇登攀プロジェクトが走るんです。それに藤崎さんもぜひ参加願いたい。それもトップとして」
「なにを言ってるんだ。おれはもう引退した人間だ。他をあたってくれ。
それに、今はシッキムからの登頂は、許可が降りないんじゃないのか」
「そこは、我々にお任せください。許可はおります。そのうち正式に発表されますよ。
なにせ一九九一年依頼ですからね。話題を呼びますよ。それから断られるのは想定していました。しかし、これは藤崎さんにとっても復帰の絶好のチャンスではありませんか。
これが企画書です。読んでおいてください。また来ます」
「何度来ても無駄だ」
「まあ、そう言わずに。読むだけでも。あ、隊長は今井田さんがやりますので。あなたは登ることだけ考えて頂ければ結構です。用具もメーカーの『スズノ・スポーツ』から必要なものは全て用意されます。では、また」
近藤は、それだけ言うと帰っていった。
藤崎は茫漠たる思いで、企画書を眺めていた。
そして、呟いた。
「カンチェンジュンガ・・・」
 
近藤が北原さえ子の家を訪問したのは、藤崎と近藤が会った三日後であった。
北原さえ子は一人息子の徹と二人暮らしで、父親は徹が小学生の時に病死していた。
さえ子は徹を育てるのに必死に働き、大学にいかせた。
しかし、彼が山岳部に入部して、藤崎と出会ったことが不幸の始まりとなってしまった。
さえ子は台所で洗い物をしていた時、ドア・チャイムがなった。
「失礼します。北原さえ子さんのお宅ですね」
「はい、どなたでしょう?」
「外務省の近藤といいます。お願いがあって参りました」
「外務省からのお願いなんて、なにかの間違いでしょう」
「いいえ、北原さんにしかできないことです。立ち話もなんですので、中に入れていただけませんか」
「はあ・・・では、どうぞ」
さえ子は仕方なく近藤をリビングに案内した。お茶を出してから近藤と向かい合った。
近藤はいかにも外務省のエリート役人という感じで、白いYシャツに結ばれたネクタイは、ピシッときまっている。疲れた足取りで歩いている営業のサラリーマンのように、胸元で緩んでだらしなくぶら下がっているわけではなかった。にこやかにほほ笑んでいたが、眼鏡の奥にはつかみどころのない眼光が光っていた。
さえ子は緊張していた。近藤はカバンから簡単な書類を出して説明をはじめた。
「実は、今度外務省がバックアップして、カンチェンジュンガ登攀の話があるのです。その、トップを藤崎勉さんに、ああ、あの前回のトップをやっていただいた藤崎さんです。彼にお願いしているのですが、どうもOKをもらえません。そこで、かつてのザイル・パートナーである、北原さんのご家族なら説得して頂けるのはないかと思っているのです」
さえ子は驚くとともに、怪訝な顔をした。
「まあ、カンチェンジュンガにですか。でも、藤崎さんは、もう山には登らないとおっしゃっています。わたしが言っても、無理な話と思いますが」
近藤は続けた。
「今度の登攀で、藤崎さんには膨大なお金が入るようになっています。
まず、登山メーカーからのブランド使用料、TVの放映権のリベート、出版社の写真使用権等々、相当な金額です。その中の一部は、北原さんにも権利があると思うのです」
「そんな・・・わたしは何もしていませんし、藤崎さんにお話しするの無理です」
近藤は、少し考えてさえ子の顔を見返した。
「北原さん、息子さんが生きていれば、こんなご苦労はなかったと思いますが。無論、藤崎さんも責任は感じているとは思います。彼と山に登らなければ息子さんは生きていた訳ですからね」
「あれは事故です。藤崎さんが息子を殺したわけではありません。それに息子が望んでやったことです」
「・・・失礼ながら申しあげますが、今失業中なのではありませんか」
「どうしてそれを! おっしゃるとおりです。最近、勤めていたスーパーを、不景気を理由に突然リストラされてしまって。まあ、年なんで、しかたないのかなと諦めていますけど」
「息子さんが生きていれば、おかあさんの面倒をみれたのでしょうがね。現実にはこのようにご苦労されている。これは藤崎さんも感じ入るべきと考えています。しかし、今は彼にも北原さんを助ける経済力はないでしょう。この企画はお二人にとって絶好のチャンスではないですか。藤崎さんは大好きな山に登れて、北原さんは生活苦から解放される、こんなことはめったにありませんよ」
「でも、わたしの生活のために藤崎さんに山にのぼれなんて言えません」
近藤は畳みかける。
「しかし、彼が息子さんをザイル・パートナーに選ばなければ、息子さんは死ななかったのですよ。よく、お考えください」
「でも、あれは事故で・・・」
「いいえ、結果的に藤崎さんが息子さんを殺したことには変わりない。彼はその責任を経済的にも負うべきなのです。よろしいですか、藤崎さんが山にのぼりさえすれば、膨大なお金が彼に入る、そして、北原さんもその中から受け取れる権利があるはずです」
さえ子は、近藤の怒涛のような説得に下をむいてしまった。
「でも藤崎さんは、少しずつお金を送ってくれています・・・」
蚊の鳴くような声でさえ子は言った。
「今の彼の稼ぎでは、大した金額ではないでしょう。大丈夫、私におまかせください。必ずいい方向に話をすすめます。こちらで彼とはうまく話をつけますから、待っていてください」
 
数日して、近藤は再び藤崎を訪問していた。
今度はもう一人の人物を伴っていた。
「藤崎さん、こちらは『スズノ・スポーツ』の柴崎部長です」
「始めまして。いやあ、光栄だな。あこがれの天才クライマーに会えるなんて」
「やめてくれ、おれはもう、山屋やめたんだ。近藤さん、何回きてもらっても無駄だから」
「企画書は読んで頂けましたか」
「読んだが、これはまるでショーのようだ。一流メーカーの登山具を使用し、TVの放映が入り、マスコミもベース・キャンプにはりついて中継と取材、登山はお祭りではない」
「誤解しないでください。我々は真摯に応援をしたいと考えているのです」
「とにかく俺は断る!」
藤崎はきっぱりと言いはなった。
すこし、間があった。近藤は少し下に視線をおとした。そしておもむろに顔を上げると、藤崎を見据えた。
「藤崎さん、北原さえ子さんをご存じですよね」
「北原のおふくろさんのことか」
「お気の毒に今、失業中なのですよ。そのうちに生活にもお困りになるとおもいます。藤崎さんがOKを出していただければ、相当なコミッションがあなたに入るのです。その中の一部を彼女に差し上げてはいかがですか」
「なんだって。おれにそのために登れというのか」
藤崎は憮然として言った。
「とんでもない。われわれは、かつての天才クライマーに復活して頂きたいだけですよ」
近藤は静かに言った。柴崎が、すかさず畳みかけた。
「そうですよ。我々の登山具を使っていただければ、ブランド使用料をお支払いします。かなりの額ですよ。それからわれわれは、藤崎さんのために新しいザイルを開発しているんです。ぜったいに切れないやつをね」
藤崎は暫く沈黙した。そして、呻くように言った。
「北原のおふくろさんが困っている、というのは本当なのか」
「もちろん本当ですよ。直接聞いてみて頂ければわかります」
近藤の目がきらりと光った。場に少し沈黙が続いた。
「・・・わかった。また、連絡する。少し考えさせてくれ」
「結構ですとも。いい返事を期待しています」
 
次の日、藤崎は、家の近所の喫茶店で北原さえ子と会っていた。
「藤崎さん、このあいだ外務省の人がきてね」
「知っています。私に山に登らせろ、というんでしょう。それより、働けなくなったというのは本当ですか」
「外務省の近藤さんから聞いたのね。突然仕事先をリストラされてしまって。家賃も滞納しているのよ」
「わかりました。金はおれが何とかします。少し待ってください」
「誤解しないで。私は、あなたにお金のことを言いにきたんじゃないわ」
「外務省の近藤は、俺が登攀を引き受ければ、多額のコミッションやリベートが俺に入るといいました。それを渡せと言いました。おふくろさん、確かにその金があれば何とかなるはずです」
「藤崎さん、私はね。今日来たのは、私のためにこんな危険な話を引き受けないで、といいにきたの。あなたのような人は、このことを聞くと必ず引き受けると思ったわ。あなたからは毎月頂いているし、とても感謝しています。私は別に就職口を探すから大丈夫よ」
「おふくろさん、そのことは別にして、俺はカンチェンチュンガに登ることを決めました。俺は、近藤が言うように、これはいい機会だと思うことにしたんです。運命がそうさせているんだとおもいました。外務省や、メーカーが何を考えているかは知りませんが、何の心配もなく、登るだけでいいなんて、こんないい話はめったにありません。登るのは俺が決めたことです。金とは関係ありません」
藤崎は決意してさえ子を改めて見据えた。
「藤崎さん・・・」
「俺と北原を拒絶した、あの北東壁にもう一度挑んでみようと思ったんです。これは、俺の問題です。一度は山屋をやめた俺ですが、毎晩のように、あの山の夢をみる。
あざ笑うかのようにそそり立つ北東壁、そして、吹き付ける吹雪の中から、聖域を荒らした者よ、もう一度ここにきて山の裁きをうけるのだ、待っているぞ、と声がする。そして周りから、臆病者め逃げるのか、と別のあざ笑う声、何回も何回も湧き上がるように。
こんな夢を毎晩のように見るんです。たぶん、これから見続けるでしょう。決着がつくまでは」
「でも、危険すぎます。カンチェンチュンガなんて」
「そうかもしれない。カンチェンチュンガは神の聖域ですから。しかし、今度は必ず成功させます。北原のためにも」
さえ子は息子を見るように藤崎を見つめた。そして、諦めたように言った。
「あの子もいいだしたらきかなかったわ。あなたと同じね。でも、気を付けて行ってきて。そして、必ず帰ってきて」
「ありがとうございます。必ず帰ってきます」
 
原田と打ち合わせ中に、近藤の携帯がなった。
「おい、噂の主からだ」
近藤は原田の方をみてにやりと笑った。
「はい、近藤です。おお、藤崎さん。・・・そうですか。ありがとうございます。はい、その件も了解しました。日本中が期待していますよ。すぐ、隊長の今井田さんから連絡がいくはずです。よろしくお願い致します」
近藤は電話をきると、勝ち誇ったように、原田に親指を立てた。
「どうだ、藤崎がOKをだしたぞ」
原田は感心して唸った。
「どうやったんだ。奴はやらないといっていたんだろう」
「藤崎の一番弱いところをせめた。北原の母親だ。彼女の勤務先に圧力をかけて解雇させた。生活にこまった彼女を、藤崎のところに相談にいかせたのだ。藤崎がOKすれば、登山メーカーからかなりの準備金とコミッションが入るようにしておいた。その金を渡すようにしむけた」
「ううむ、相変わらず策士だな」
「藤崎も北原さえ子からこんな形で頼まれれば、いやとは言えないだろう。息子を殺したのは奴だからな」
「しかし、あれは事故じゃないか」
「事故であろうがなかろうが関係ない。本人が殺したと思っているのか、いないのかだ。藤崎は、自分のせいで北原徹が死んだと思っている。奴にとってはそれが全てだ。そして、それが真実だ。とにかく、お前はきちんと藤崎を追っかけてドキュメンタリー創るのが仕事だ。よろしくたのむぞ」
「わかった。そっちはまかせておけ」

                            つづく
 


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