『素晴らしき日々』感想

 エロゲ『素晴らしき日々』の感想。
 先日HDフルボイス版が発売したということで数年ぶりにプレイしてみたが、やっぱりめちゃくちゃおもしろかった。1周目と2周目では見えるものがまるで違う(特に序盤~中盤)というのと、特に最序盤であるDown the Rabbit-HoleⅠは各章を横断するような構造を提示しているので、過去にプレイしたことあるよーという人もこれを機に是非プレイし直してほしいと思う。電波やら哲学やらの方面で有名になっている(よね?)本作品だが、哲学部分を理解できずとも面白い作品であるので初見の人にもおすすめ。以下雑考、ネタバレあり注意。特に本作品はネタバレが致命的になるので本当に注意。




 タイトルの元ネタは作中でもしばしば言及されている哲学者ウィトゲンシュタインの今際の言葉であろう。彼は晩年病床に臥せりながら『確実性の問題』を執筆していたが、ある日の午後散歩に出た際病状が急変した。あと数日の命であると伝えた係りつけのベヴァン医師に、彼ははっきりと「Good!」と言い、翌日、意識を失う直前に「僕は素晴らしい一生(wonderful life)を送ったとみんなに伝えて下さい」と言ったという。そして翌日の朝、彼はその生涯の幕を閉じた。まあこの作品がウィトゲンシュタインから多大な影響を受けていることは明らかであるので、少しウィトゲンシュタインの思想にも関連させて感想を残したい。だが僕はウィトゲンシュタインの専門家でもなんでもないので、分かる範囲で記すことになるため正確性はというとかなり怪しいが、あくまでゲームの感想と言うことでご容赦願う。彼の思想に興味のある人は『論理哲学論考を読む』(野矢茂樹、2002年4月10日)や『ウィトゲンシュタイン―言語の限界』(飯田隆、1997年9月10日)あたりが入門として分かりやすいのでご興味あれば一読することをおすすめする。


 「生きる意味は何か」とか「人生の意味は何か」という命題は、プロであれアマであれ古今東西の人間に考えられてきたものである。様々な人間がこの難題に挑み、千差万別の答えを披露してきた。「生きる意味とは神への信仰だ」とか「人生の意味は子孫を残すことにある」etcetc...しかし与えられたどの答えも普遍的となものだとは言い難いだろう。どの答えにも納得できなかった人間は、それらの命題にそんなものは無いという答えを出す。それらの妥当性についてはさておくとして、いずれにせよ全てに共通するのは、そういった命題に対する答えは外生的に与えられ、保証されなければならないという態度である。信仰であればそれは神によって保証され、愛であれば他者により保証される。では、そういった人生の問いに対する答えは、それを保証する誰かがいれば得られるのかというとそうではないだろう。寄り添ってくれる誰かがいたとしても、そこに生きることを肯定してもよいという思いがなければ(逆説的な話ではあるが)辿りつく先は必然的に生以外のどこかになるだろう。そのような、生きる意味はあるのか?という姿勢から内生的に懐疑を徹底していけばいずれは水掛け論にならざるを得ず、真摯な思考は絶望、あるいは同じことではあるが、死への希望と結びつく。

 Down the Rabbit-Hole ⅡやIt's my own Inventionでは、そのような懐疑が主題の一つであると言えるだろう。いずれも卓司の死という結末を迎えるこれらの章は、懐疑によるマイナスの面の強調と言える。世界の終末という絶望的な事実を前にして、生きる意味を懐疑的に問うとき、死は救済となる。しかしこれが忌避すべき結末であることは、おどろおどろしいEDのCGからも明らかである。そこが辿り着くべき終点ではない。では、何によって世界は支えられるべきであるのか。

 その後の章、Looking-glass Insectsでは、「生きる意志」という主題が強調されはじめる。高島ざくろの独白で繰り返し強調されるように、彼女は自らによって世界を変えようという意志を持つことができない。現状に文句を垂れつつ、自らを変えてくれる誰かが現れるのをただ待つだけで、行動を迫られる場面では、現状が悪化するよりも流されたほうがよいという基準で行動する。ざくろは自分の意志を問われると必ずそれに答えられず、希実香との会話では、「自分の意志を持て」ということが再三強調される。また、同様に自分の存在意義=卓司を道連れに消えることと確定させてしまっているために、己の意志によって自らを変えることができない皆守からは(同属嫌悪として)あの女は苦手だ、と評されることになるし、誰にでも優しい=意志の無さをある意味で肯定してくれる由岐に惹かれることとなる。いずれにせよ、現在の「つまらない自分」の原因を「つまらない世界」に見出し、「素晴らしい自分」になることをそっくりそのまま「自分を変えてくれる誰か」に委ねることで、何の選択もしない現在へと自分を追い込んでいる。この章はその後の皆守のEDで描かれる展開を先取りするような象徴的な章となっており、ざくろの意志が向かう先によって(彼女にとっての)ハッピーエンド/バッドエンドが分岐することとなる(注1)。すなわち、彼女が最悪の結果を迎えるまで意志を持つことができなければそれは自らの存在意義を世界を救うという外生的要因に見出す形での現在の否定へ向かい自殺ENDを迎えることとなるし、戦うという意志を持ち希実香の手を取ればハッピーエンドとなる。この「意志」という主題はこのゲームの根本へと繋がってくることとなる。

 Jabberwockyでは、自らを救世主であると信じその存在を確固たるものとする卓司と戦うために、皆守は夢の中で由岐と修行をすることとなる。ここで意図されているのは外界の存在証明であり、懐疑主義への抵抗である。皆守の存在証明は後述する宣言により得られるが、これは後期ウィトゲンシュタインとムーア命題の影響を強く受けていると考える(故にナイフを使ってトドメを刺そうとするくだりも、「ナイフがこの手にある/ない」という宣言により敗れることとなる)。単に精神力が強いほうが勝つ、という少年漫画的展開(そういった意図もあることは否定しない)にいきなりなったのではなく、これは必要な手続きである。少し補足しておこう。

 哲学者G.E.ムーアは『常識の擁護』と『外界の証明』という二つの論文を執筆し、懐疑論から常識的知識を擁護しようとした。両論文において議論の仕方は異なるが、たとえば『外界の証明』でムーアは「ここにひとつの手がある」という命題を挙げている。まず彼は、右手を挙げて「ここにひとつの手がある」と言い,その次に、左手を挙げながら「ここにもうひとつの手がある」と言う。そしてこれで外界の事物が存在することを証明できたと主張するのである。
 これで懐疑論が反駁できたのか?と疑問を持つような内容であろうという印象を受けることは、懐疑論者が立脚する立場に乗らず、日常的知識を疑わないという理由によっている。すなわち、外界の事物はただ知覚を通じてのみ認識できるのであるから外界の事物それ自体については確実に知りようがない、といった典型的な懐疑論に与することなく、「ここにひとつの手がある」という常識は確実であると主張することから、議論を始めているのである。
 ウィトゲンシュタインは、日常的知識が懐疑論者の主張するようには疑えないという論点には賛同する。日常的知識を無根拠に受け入れているからこそ、私たちは言語を用いることができる。この日常的知識が言語ゲームの要となっている事態を、ウィトゲンシュタインは蝶番という比喩を用いて次のように説明している。

すなわち、私たちが立てる問いと疑いは、幾つかの命題が疑いから除外され、いわば問いや疑いを回転させる蝶番のような役割をしているからこそ、成立しているのである。
...私たちが扉を開けたいと思うのなら、その蝶番は固定されていなければならない。
―――ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』

このような懐疑を免れている、懐疑することはナンセンスである日常的知識を表す命題は「蝶番命題」と呼ばれる(ここでは大雑把に、ムーア命題と蝶番命題を似たようなものだと考えてほしい)。

 さて、蝶番命題そしてムーア命題は我々が普段生きている中で意識されるものではないだろう。だからこそ、その命題には奇妙な印象を受けざるを得ない。この命題が問題となるのは、前述した通り懐疑に対する応答、カウンターとしての宣言である。すなわち、前提を定義すること、世界に対する自らの態度の宣言として、蝶番命題は使用される。つまり、右手を挙げて「ここにひとつの手がある」と宣言することは、「世界の中に自分の手が確実に存在する」という証明なのではなく、言うなれば「ここに手があることは疑い得ない」と宣言することから、「私の世界」を確立するようなものなのである。ここにおいて、「心」あるいは「魂」という概念が立ち現れる。

 心がある、とはどういうことなのか。ウィトゲンシュタインは、は「他人に心がある」というのは世界像命題(注2)であることを、「魂に対する態度」という概念に託して示した。自分以外の人にも心があることは、私たちがよすがとする世界像的事実のひとつであり、それゆえに、たとえば疑いが論理的に可能だからという理由でそれを疑っても、そこに意義は見つからないのである。

私が友人について、「彼は自動機械ではない」と言うとしよう。――ここでどんな情報が伝えられるのか、そしてそれは誰にとっての情報なのか。ふだんの状況で彼に会う人間にとって、それは情報なのか。一体それは、何を伝えうるのだろう!...彼に対する私の態度は、魂に対する態度である。
―――ウィトゲンシュタイン『哲学探究』

 ここで指摘されているのは、私たちは他者について「彼は機械ではない」と敢えて言明することは無い、という事実である。我々は相手が機械であることを疑いながら会話をするのでもなければ、相手の心情に対して洞察をするわけでもない。相手に心があるという前提を受け入れること(すなわち、魂に対する態度)は自明の前提であるために、「彼は機械ではない」という言明は何の情報をももたらさない。だから彼に魂があることを証明しているのはそのような宣言なのではなく、まさに彼に魂があることを(無意識にでも)信じていることから生ずる態度なのである。このような形で、他者の魂の存在は証明される。

 さて、他者に心があることは以上のような形で、すなわち私たちが彼の魂に対する態度を取ることによって保証される、と述べた。では、私の心は、魂の有無は、どのようにして証明されるのであろうか。前述の証明を裏返せば、他者が私の魂に対する態度をとることで私の心が証明されることとなり、それはすなわち人が私にそのような態度を取らなければ、私からは心がなくなる、ということなのであろうか。
 そうではない。このような疑念に対しては、次のように答えるべきである。すなわち、私にとって私に心があることは、他者の態度とは無関係である、と。例えば他人に自分が人間扱いされないような事態が生じれば、心は消えるどころかますます自己主張を始めるであろうし、それはざくろが犯され、心を消してしまいたいと願いながらもそれができなかった事実からも示されている。私は世界に対して、自分が人間であることを主張することをやめることはできない。他我とは違い、このような態度にこそ自我は生じる。私にとって私に心があるということは、私が自分でそう思っているということ、いわば私が私自身の魂に対する態度をとって生きるということである。言い換えれば、私が私であることの証明は他者によって為されるものではなく、私自身において引き受けることでしか行うことはできない。だからこそ、その言葉による宣言は魂が存在することの宣言になるのであり、そしてその言葉が「私」を生み出している、という結果に繋がる。

 このような魂の存在は、すなわち「生きる意志」が存在するという結論を導く。皆守は己の役割は卓司に対しての破壊者であり、それを終えれば自らは消滅することを受け入れていたわけだが、そこに「生きる意志」は存在していなかったと言えよう。精神世界での修行は羽咲を守るという目的によって生きる意志を持ち、ムーア命題の宣言によって世界を引き受けるための訓練であった。だから、修行の終わりは皆守が自らの存在意義を自らの意志によって確定させる―すなわち、自らの魂を有意味なものとして引き受け宣言する―象徴的なシーンが挿入される。

...だったら、これは"お前の望んだことではないのか?"
......そう由岐に問いたい衝動にかられた。
だが......それはできない。
その言葉こそ…由岐の言う甘えに違いないのだから......。
そうだ......この世界を望んだのは......確かに......、
「俺が望んだ......だからここに俺はいる」
「......うん、良い答えだ」
―――水上由岐、間宮皆守『素晴らしき日々』

 私の意志は私の宣言によって証明される。ゆえに、私は世界を変化させる力を持つ。だからこそ、例えば、屋上での卓司との戦いは皆守がナイフをその手から奪われることによって敗北を喫するが、それは「私はナイフを持っている」という宣言に失敗することで、一時的に死んでしまう、すなわち世界が終わってしまうのだ。

 さて、この作品の根幹にある「幸福に生きよ!」という命令文は、この「意志」の次元においてその意味を明らかにする。それは「生きる意志」が導入される章ではハッピーエンドを迎えるが、逆にそれを持てない章では登場人物が死という形でのバッドエンドを迎えることとからも明らかである。だが、この意志は万能なものではない。皆守/卓司の戦いにおいては意志がその趨勢を担うわけであるが、当然ながらたかだか個人の意志は物理的に外界としての世界を変革する力を持つわけではない。

世界は私の意志から独立である。
―――ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.373
神と人生の目的について私は何を知っているか。
私は知っている。この世界があることを。
私の眼がその視野の中にあるのと同様な仕方で、私が世界の中にあることを。
我々がその意義と呼ぶ何かが、世界に関して問題となることを。
この意義は、世界の中に存するのではなく、その外に存することを。
人生が世界であることを。
私の意志が世界に浸透していることを。
私の意志が善か悪かであることを。
したがって、善と悪は世界の意義と何らかの連関を持つことを。
人生の意義、すなわち、世界の意義を、我々は神と呼ぶことができる。
そして、神を父に喩えることは、このことと結びついている。
祈りとは、人生の意義について考えることである。
世界の出来事を私の意志に従わせることはできない、私は全く無力である。
出来事へ影響を及ぼすことを断念することによってのみ、私は自分を世界から独立させることができる―――よって、ある意味で世界を支配することができる。
―――ウィトゲンシュタイン『草稿』
善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、変え得るのはただ世界の限界であり、言語によって表現され得るような事実ではない。
つまり、この場合世界は全体として別の世界になるのでなければならない。世界はいわば全体として縮小もしくは増大せねばならない。
幸福な人の世界は不幸な人の世界とは別の世界である。
―――ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.43

 繰り返すが、意志は、物理的な外界に対しては徹底的に無力である。究極的には、死によってどのような幸福な人生もその終わりを告げるのであり、死を克服することはできない。卓司が終ノ空に至ることによって克服しようとしたのは、まさしく死という人間の限界そのものであった。だが、そもそも死に対して絶望することは、ナンセンスなのである。人は死を知ることなど出来ない。作中で繰り返し強調されているように、死は人生の中の出来事ではないからだ。では本源的な死というものを目にしてもなお、幸福に生きるという意志はどのようにして担保されるのか?
これはそもそも問いの仕方が間違っているのだろう。死を前提にして、それを乗り越えるために生きる意志を動員するのではない。事態は逆だ。生きる意志を持つことによって、ただそのことのみによって、人は幸福たることが出来るのであり、故に幸福の存在証明は自らの意志によって行われなければならない。それによって世界の中の「事実」を変革することはできるのであり、それは「認識」によって行われる、ということである。

自由落下……重力という運命により、俺たちは地面に吸い込まれる……。
空を飛ぶことが出来ない人間は、
空の上から地に落ちることしかできない。
でも、俺は認めない。
絶望なんてここには無い。
あるべきはすべき事だけ。
この瞬間にすべき事だけ、
今を生き。
そして明日を生きるためにすべき事だけ。
―――『素晴らしき日々』間宮皆守
...それどころか、この世界に生まれるのは呪いに似たものだって......
だってさ、死んじゃうんだからさ
どんな幸せな時間も終わる
どんな楽しい時間も終わる
どんなに人を愛しても......どんなに世界を愛しても......
それは終わる
死という名の終止符を打たれて......
だから、この世界に生まれ落ちることは呪いに似たものだと思ってた......
だって、幸福は終わりを告げてしまうのだから......
(中略)
人は先に進む......その歩みを止めることはない。
たった一つの思いを心に刻み込まれて。
そう、命令にした刻印......すべての人、いや、すべての生命が、その刻印に命じられて生きている。
幸福に生きよ!
猫よ。犬よ。シマウマよ。虎さんよ。セミさんよ。そして人よ。
等しく、幸福に生きよ!

―――――

死は想像......いつまで経っても行き着くことの出来ない......
人は死を知らず......にも関わらず人は死を知り、そしてそれがゆえに幸福の中で溺れることを覚えた......
絶望とは......幸福の中で溺れることが出来る人にだけ与えられた特権だな
(中略)
でも、だからこそ人は、言葉を手に入れた......
空を美しいと感じた......
良き世界になれと祈るようになった......
言葉と美しさと祈り......
三つの力と共に......素晴らしい日々を手にした
人よ、幸福たれ!
幸福に溺れることなく…この世界に絶望することなく......
ただ幸福に生きよ、みたいな
(注3)

―――――

何故、生まれた赤ん坊の泣き声を止めてはいけないか......
何故、人は自分以外の死を悼むのか......
そして、その悼みは......決して過ちではなく......
正しき祈りなんだってさ......
世界を愛すること......
世界のすべてが愛で満ちていること......
それは祈り......
自分が見上げた夜空が祝福されていること......
それは祈り......
世界は祝福で満ちている......
だから人は永遠の相に生きることができる......
できるんだ......
―――水上由岐『素晴らしき日々』

 だからこそ、無力であってもなお、意志は自らの生に関わる事実を認識によって引き受けることによって、幸福な人生足りうることが出来る。生はあらかじめ(生きるという)祝福と(死という)呪いを受けざるを得ないのであり、だからこそ、そのいずれかを選び取るのは、我々自身の意思に他ならないからである。それは救世主として卓司が行おうとしたこととは、真逆のあり方であろう。

月が笑う。
神が笑う。
この滑稽な姿を、
この喜劇のような悲劇を、
星々は回る。
まるでダンス。
夜空が…神が俺たちを嘲弄する、
空の器を床に投げ落とす無邪気な子供のように…、
世界は空っぽになる。
だが俺は言う。
「くそくらえだ!」
神なんて関係ねぇ。
運命なんて関係ねぇ。
俺は、皆守だ。
間宮皆守。
俺は約束した。
羽咲を守ると、
羽咲を守るヒーローであると、
だから、俺は怯まない。
誰が相手だって怯まない。
天国で神と会えば、そいつを殴る。
地獄で鬼に会ったら、そいつを殴る。
俺は、俺自信の手で、運命を切り開く。
喜劇も悲劇もくそくらえだ!
―――間宮皆守『素晴らしき日々』

 このようにして受け止められた世界には、絶望など存在しない。意志は世界の中の事実を総体として受け止める力だと言えよう。世界の中には事実しか存在しない。それを受け止め、生きることは我々に委ねられているのであり、だからこそ、「生きる意志」こそが世界を変える力を持つことになる。あるいはこう言い換えても良い。世界の中で何かが(事実が)変わったわけではない。ただ認識が変化したのである。そしてこのような肯定をこそ、ウィトゲンシュタインは「認識に生きること」だと言った。すなわち認識とは、世界に対する態度に他ならない。例えば前述した通り、皆守は自らの役割に囚われ「生きる意志」を持っていなかったが、それを最期まで持つことが出来なければ、自らの死=世界の終わりを迎えることとなるし、逆に最期まで抵抗することが出来ればそれはハッピーエンドへと繋がる。

人生の意味なんて…問う必要はない。人生が不可解であると戸惑う必要はなんてない…。この世界も、この宇宙も、この空、この河、この道…そのすべての不可解さに戸惑う必要なんてない…人が生きるという事は、それ自体をものみ込んでしまう広さだから…
―――間宮皆守『素晴らしき日々』

 以上のように「意志」を捉えることによって、冒頭の章であるDown the Rabbit-HoleⅠにおける由岐の最期のセリフが明らかになる。

世界は器......
器を満たすもの......それは
―――水上由岐『素晴らしき日々』

 器を満たすものは、もちろん「生きる意志」であろう。世界の事実を事実ありのままに受け取る純粋に観想的な主体には幸福も不幸も無い。幸福や不幸を生み出すのは、生きる意志である。生きる意志に満たされた世界こそが幸福な生であり、生きる意志が奪い取られる世界こそが不幸な生である、と言えるだろう。念のため、ここで器、と言われているものは世界の限界、すなわち自己に他ならない、ということを言及しておく。器それ自体は器を満たすことなどできない。それを満たすのは、世界の事実に意味を与える超越論的な生きる意志である。かくして『素晴らしき日々』を貫くメッセージは次の一言に集約されると言うことができるだろう。

幸福に生きよ!
―――ウィトゲンシュタイン『草稿』



以下適当な雑感。

・It's my own Inventionにおける希実香ルートはバッドエンドであるけれども非常に好きな話である。希実香が飛び降りた際の、くそくらえだという神に対する卓司の宣言は、皮肉にもその後の皆守、そして羽咲の宣言にも共通するものを見て取れる。飛び降りによって救世主としての役割を脱ぎ捨てた卓司を見ると、兄弟仲良く暮らす道もどっかにあったのかなーと思ったり思わなかったり。

・上の例もそうであるけど、「飛び降り」による関係の移行はこの物語で象徴的なシーンを占める。希実香と卓司が信者/救世主から希実香(と言う個人)/卓司(と言う個人)になったように、ざくろが幽霊としての役割を担うことになったように、云々。

・Looking-glass Insectsはこの物語の中で最も『論理哲学論考』をリスペクトしている章だと言えるだろう。正規ルート(ざくろにとってのバッドエンド)において彼女は自殺を行うわけだが、Down the Rabbit-HoleⅠにおいてこの自殺は罪であり、その贖罪をしなければならなかったことを語る。これは、ウィトゲンシュタインが自殺について次のような立場を徹底していたことに拠っている。

自殺が許される場合は、全てが許される。
何かが許されない場合には、自殺が許されない。
このことは倫理の本質に光を投じている。というのも、自殺は基本的な罪だからである。
―ウィトゲンシュタイン『草稿』

逆に、ざくろのハッピーエンドでは彼女は自らの認識を変化させ、希実香と共にいる道を選び取る。END後では卓司(由岐)に対して興味を失い、冷たいほどの印象を与えるわけだが、これは卓司がざくろにとっての「(哲学的な)思想」であり、ウィトゲンシュタインの言う梯子であった、と言える。

私を理解する人は、私の命題を通り抜け―その上に立ち―それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子を登りきった者は梯子を投げ棄てねばならない。)
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.54

卓司とシラノをきっかけとして、自らの世界に対する意志を持つことで、彼女の態度は変化し、もはや卓司に対して出逢った当初ほどの輝きを抱かなくなったのはこの記述の表れであろう。この辺の徹底っぷりはその後の展開よりなお『論考』に厳密である。

・羽咲がかわいすぎる。

・過去編、そしてその先の2つのハッピーエンドには些かご都合主義的なものを感じるが、前作『終ノ空』を乗り越えるため書かれた(であってるはず?)この作品の意図からするに、ギャルゲー的ENDがまあふさわしいのだろう(と擁護する意図も込めて言ってみる)。追加ルートKnockin' on heaven's doorでは由岐が幽霊として残存したその先の世界が描かれるわけだが、「認識による生」ではなく、死までの道に由岐と真の意味で再開できるという目的を設定することで現在の生を救済するという方法を取っているのはうーん?と思ってしまうところだが、それでも最後のCGには泣かされたので自分も単純な人間である...。

(注1)ここまで破滅的とまではいかなくとも、似たような状況に陥ってしまっている人間の呟きを見たことはあるだろう。「レールの上を歩いてきたけど改めて考えると自分のやりたいことが分からない」、「なにをしてもつまらないしなにもしたくない」、等々。逆に、状況は同じであっても、自らの強い意志で選択をした者は、その意志を持ち続けている限り「素晴らしき日々」を歩んでいる、ように見える。程度の差はあれど、「意志」の有無が大きく関わるのは確かだろう。

(注2)世界像命題もまた、ここでは簡略化のため、蝶番命題と一緒のものとして考えてもらいたい。ムーア命題も含めたこれらの命題の区別は非常に重要であるのだが、ご容赦されたし(というか、それらを説明できる力が僕にはない)。

(注3)言葉と美しさと祈り、というのは「認識によって生を引き受ける」上での重要なキーワードとなる。いずれ時間があったらゆっくり論じたいと思う。あまりに冗長な本文になってしまったので、ここでは簡単な説明に止めておきたい。
幸福になるためには意志が必要である、というのは前述してきたことであったが、この意志を呼び覚ます力こそが美であるとウィトゲンシュタインは語った。

そして美とは、まさに幸福にするもののことだ。
―――ウィトゲンシュタイン『草稿』

哲学者である野矢茂樹は、『論理哲学論考』における「世界」概念が三段階の変容を受けていることを指摘する。すなわち、「事実の総体としての世界」は言語による分析を経て「永遠の相のもとでの世界」となり、次に「生きる意志」が「意志に彩られた世界」を導く。ここにおいて美は、そして『素晴らしき日々』においては「祈り」もまた同様に、世界を超越しているが故に、世界を構成する要素ではないが、しかし「生きる意志」を呼び覚ますものであると言う点で、「意志に彩られた世界」における本質的な要因の一つである。

祈りとは、世界の意義についての思考である。
―――ウィトゲンシュタイン『草稿』

希実香ルートにおいて彼女はこれに関連する非常に重要なテーマを語っているので、自分へのメモ用に引用しておく。

「きゃははははははっ。
旋律ですよー」
そう言って希実香は大きく空に手をかざす。なぜかそのひらには秤がのっており天を指していた。
「はははははは......バカかお前っなんで秤なんて持ってるんだよ」
「きゃはははは、神様の重さを量るんです!だから秤をもってきました!」
そう言って希実香は秤を大空に掲げる。
「さぁ、神様、天秤の片方のお乗りくださいませっっ。
もう片方にはすでに旋律が乗っております。
旋律ですっっ、私は旋律担当、そして救世主様が奇跡担当ですっ。
さぁ、神様、ここです。
この天秤にお乗り下さいませっっ。」
「はははは、どんな組み合わせだよ......なんで奇跡と旋律なんだよ」
「そんな事ありませんよー。
神様は旋律ですって!
神様は旋律なんですよー
私、今分かりました!
神様は旋律ですよー」
―――橘希実香、間宮卓司『素晴らしき日々』

「言葉」によって引き受けられた生は、あるいは「旋律」によって肯定される。それは「世界」が「神」によって肯定されるのと同様の仕方で。

(追記)ウィトゲンシュタインが世界という言葉を用いる時、「(外界という意味での)世界」と「私の世界」を区別していることには注意が必要である。


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鍵盤の音が俺の耳に響き......
そして他の誰かの耳に届く。
誰かが作った曲を俺が弾く。
そいつは俺に弾かれると思って作曲したわけじゃない。
でも俺はその曲を弾く。
だいたい好きな曲だから......
感動した曲だから......
その旋律は、誰かの耳に届く、
俺以外の誰か、
皿を洗う羽咲に、
最近、玉のみならず、本当に竿まで取ろうとしているマスターに、
店に集まるオカマ野郎どもに......
音楽は響く。
店内に響く。
世界に響く。
世界の限界まで響く。
そこで誰かが聴いているだろうか?
聴いていないのだろうか?
それでも俺は......音楽を奏でる。
誰のためでもなく、
それを聴く、あなたのために......。
―――間宮皆守『素晴らしき日々』

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