労働基準監督官日記⑧
日々あった出来事について備忘録的な気分で書いた以下の記事内容は全てフィクションです。
労働基準監督官とは、労働基準関係法令に基づいて、原則予告なく事業場(工場や事務所など)に立ち入り、法に定める労働条件や安全衛生の基準を事業主に守ってもらうよう、必要な指導を行い、労働条件の確保・向上と働く人の安全や健康の確保を図る厚生労働省所属の国家公務員のこと。
夏も盛りの頃に預かった申告は、ありふれた残業代不払に関するものだった。月の残業時間に上限が設定されており、それを超えた時間に対しては残業代を申請できない空気であるという、1日3回は聞く話だ。こういった件は労働者自身が申請をしていない以上、実際の残業時間の記録がないので法違反の指摘が難しい。
「会社からは度重なるパワハラを受けたり、違法な行為に加担させられたりしており、行政指導が上手くいかなければ残業代も含めてまとめて訴訟する予定です。不払は私以外にも生じているので、他職員の分も含めて調査してください。また、申請できなかった時間を含めると長時間労働になっていましたので、それも違反を指摘してください。出勤データはパソコンを見ればわかるはずです。ファイルの場所は……」
こちらからかけた1コールで電話に出た申告者のM氏は、僕が決まり文句の事項を説明する前に自分から一気に喋った。申告事項を事細かに話すところは、たまにいる、申告や訴訟に慣れた人の雰囲気を感じさせた。こういった人は行政指導の成否にかかわらず、監督署が違反を指摘した、という事実を裁判に利用したがることが多く、こちらの処理に関する文書の開示請求を受けることが多々あるため、なかなか気が重かった。
申告者と話した数日後、建設現場へパトロールに行って帰ろうとした際にたまたま会社が近くにあったことに気づいたので、勢いのまま会社へ立ち寄った。抜き打ちの臨検であり社長はいなかったが、忙しそうで嫌な顔をしている経理の事務員を捕まえ話を聞けることになった。嫌な顔をしていたのは建設現場で汗を吸った服そのままに会社に来たせいかもしれなかったが。
「Mさんから、申請できなかった残業代があるとのお話を受けておりまして。お分かりの範囲でご事情をお伺いさせていただいてよろしいですか?」
寒いくらいに冷房の効いた部屋に通され、話を始めた。すると、事務員さんは、
「Mさんがそう言っていたんですか?」
と怪訝な顔で言う。
「そのようにお伺いしておりますが…少なくとも、Mさんの部署は職員が45時間以上の残業を申請できない状況であるとの訴えがありまして」
事務員さんはますます怪訝な顔になり、
「残業が申請しづらいのは確かにそうですが、申請するなと言っているのは当のMさんです」
と言った。
Mさんは、課長として中途入社したらしいが、早々に「こんな仕事で残業する必要はない」、「こんなので残業をつけてたら社長に怒られる」と言い始め、部下が残業申請をすると嫌な顔をしていたらしい。また、Mさん自身は管理職、法律で言う管理監督者であるため、残業代不払などそもそもない、とのことであった。
「なるほど…Mさんが来る前はどうだったんですか?」
「残業したら申請しますし、お金が払われないといったことはありませんでした」
これは、社長に直接話を聞く必要がありそうだ。ひとまずその場で確認できる出勤記録などの書類をコピーしてもらい、事務員さんから社長の携帯に電話をかけてもらった。後日、追加書類を持参して署に来ていただきたいと伝えたところ、すんなりと承諾を得ることができた。蒸し暑い、環境省様が示す推奨温度にエアコンが設定された署内に戻り、進捗を報告するためにMさんに何度か電話をしたが、別の仕事でも見つけたのか、応答はなかった。
翌週、社長から「明日は予定通りに伺います」とご丁寧にも連絡があった。続けて、「ご存知かもしれませんがMは先週警察に逮捕されましたので、そのことについてもお話します」とのことだった。なるほど、Mさんは電話に出られるはずもない。
翌日、社長と経理事務員が新聞を持参して来署した。そこには確かに、Mさんが強制わいせつ容疑で逮捕された記事が掲載されていた。
「数日前に警察から連絡がありまして、事情聴取に行ってきました。警察によればMは以前にも強制わいせつで逮捕され、1年半の懲役がつき執行猶予中であったようです。今回呼び出しを受けたのは、それとは関係がないのでしょうか?」
「いや、なんと言いますか…偶然の一致ですかね…」
社長が警察に聞いたという、今回Mさんが逮捕されたきっかけとなった出来事は、Mさんが申告を行う少し前に起こっていたらしい。
「警察では余罪も追求しているそうですが、どうもMは働いた会社を半年で辞め、仕事のせいで病気になったという診断書を入手し、それを盾に会社に慰謝料を請求することを繰り返していたようです。実はうちも同じように慰謝料の請求を受けていまして…。監督署では慰謝料について調査するものかと思っていたのですが」
「いえ、そちらについてはなんとも…監督署ではMさんから申告のあった残業代不払があるかを調査するに留まるので…」
色々と聞きたいことはあったが、好奇心を抑え、事務的な質問に入る。書類を見るに、Mさんは管理職の立場にあり、また、待遇からしていわゆる名ばかり管理職とも断定はできなさそうで、Mさん自身に対する法違反を問うのは難しい状態だった。ついでに言うと、Mさんが逮捕されたはずの時間に勤務報告が行われているなど不自然な点が山ほどあった。だが、Mさんが課長を勤めている部署の他の職員については明らかにPCログと退勤時間が一致しておらず、そのことを社長に問うと、
「ここに来る前に職員に事情を聞きましたが、Mの圧力により残業を申請できないものがいたようです」
とのことであり、真偽の程はともかくとしてひとまずMさん以外の職員について残業代を遡及して支払うよう是正勧告書を手渡した。
社長が帰ったあと、警察署に電話しMさんが拘留されていることが事実である裏付けを取った。Mさんに接見したいと告げると、明日の午後であれば可能とのことであった。
「面会はどのような要件でしょうか」
「Mさんご自身から賃金不払に関するご相談がありまして、その件で直接お話しをお伺いさせていただければと」
「賃金不払ですか…Mは働いた先々で慰謝料を請求していることが明らかになっており、金銭を騙し取っている疑いがありますが」
社長から聞いたものと同じ説明を受ける。警察がここまで教えてくれるのは珍しいな、と思いつつ、慰謝料とは関連のないことになるかと思います、では明日の午後にと告げ電話を切った。昼飯を食ってから行くのもいいなと思ったが、警察署の周辺にランチ営業しているうまそうな店はないのが残念だった。
翌日、塀の中でアクリル板越しにMさんと向き合う。Mさんは座るやいなや、「酒に酔ったせいですのでここからは直ぐに出られます」と言い、僕はそうですか、とだけ返した。
社長とのやりとりを含めたこれまでの経過を説明する。Mさん自身に関する法違反の有無を特定することは困難であり、申告処理は終了せざるを得ないと告げたときは顔を歪めていたが、留置所の中ということもあるのか、はい、わかりましたと答える。ただ、それでも裁判をする意志はまだあるとのことで、監視する警察官の前で堂々と「500万は請求します。私にはこれしかありませんから」と宣言していた。なにがこれしかないのかは、接見の時間が20分しかないため聞けなかったが、少なくとも課長として中途採用されるほどの能力を、仕事に活かす気は毛頭なさそうであった。
Mさんの余罪が濡れ衣だったのか、その後裁判を起こしたのか、そもそも塀から出られたのかは定かではない。ただ一つ確かなのは、この件に関する文書はいまだ開示請求を受けていないということである。
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