労働基準監督官日記④

 日々あった出来事について備忘録的な気分で書いた以下の記事内容は全てフィクションです。

 労働基準監督官とは、労働基準関係法令に基づいて、原則予告なく事業場(工場や事務所など)に立ち入り、法に定める労働条件や安全衛生の基準を事業主に守ってもらうよう、必要な指導を行い、労働条件の確保・向上と働く人の安全や健康の確保を図る厚生労働省所属の国家公務員のこと。
 警察員として動くこともあるがあまり知ってほしくないのが実情である。


 36協定という紙切れがある。従業員に残業をさせるにはこれを労基署に届け出る必要があり、従業員の代表者と中身(1日何時間まで残業させてもオッケー、とか)について合意を得たうえで作成するのだが、まあ大体の場合適当な人が適当にサインしている。大半の人はこんなもんの有無を気にせず日々の生活を送っているわけだが、ネットが普及し情報を手に入れるのが容易になった影響か、気にする人は気にするものである。今まさに相談を聞いている、肩幅が広くがっしりしたRさんもまた、その一人のようであった。

「うちの会社は36協定を提出してないんですよ。法律を守るように周知している会社が法律を守っていない、これは許されないと思いませんか」
 Rさんは肩をいからせる。社員証を首から下げたまま熱弁する姿勢には鬼気迫るものがあった。
「まあ、違反かどうかという観点で言えば違反ですね…はい」
「私たちは正しいと思った情報を公共の電波に乗せて発信する。であれば私たち自身もまた正しいことをしなければならないのは当然のことです。金儲けのためにやっているのではないのですよ」
 いや、少なくとも社長は金儲けのためにやっていると思うが…という言葉を飲み込み、曖昧に頷く。ラジオ局のディレクターを勤めている彼は、報道者然とした正義漢のようであった。

 36協定を提出せず残業を行っていたとしたら違反は違反であるのだが、申し出があったからと言って即座に監督ができるわけでもない。労災事故の調査やら賃金不払やら、緊急を要する案件が山のように蓄積しているのである。ひとまず情報として預かります、と告げたが、Rさんは煌めく瞳のまま正義を訴える。

「法違反の放置は絶対に赦されることではありません、提出されていないかこの場で調べてもらえばすぐに違反だと分かりますよね」
「調べることはできますが…内部情報なのでこの場でRさんに勝手に教えることはできませんし、結局すぐに行くと確約することもできませんよ。それもまた法律です」

 Rさんは釈然としない表情を示しながらも、それが法律ならしょうがない、社長に確認しますと言って帰っていった。閉庁時間は1時間近く過ぎていた。

 数日後、再びRさんは覇気を漲らせつつ相談ブースにいた。ご丁寧に僕をご指名で。

「社長にあらためて確認したら、36協定を見せられないと言われました。提出の有無は分かりませんが、これは明確に法律違反ですよね?」
 聞かれたら答えないわけにもいかない。
「周知義務の違反の可能性はありますかね、はい…」
「今すぐにでも監督に入ってくれますよね?」
「速やかに入れる制度はありますが、Rさんに36協定を見せたらその時点で解決、ということになりますよ?」
「会社の悪いところをすべて指摘してもらうことはできないのですか。我が社には改善すべき点が山のようにあるのですよ」
 Rさんは拳を振り上げながら熱弁するが、制度上どうにもならないものはどうにもならない。
「わかりました、全体的な監督を要する事業場として間違いなく記録させていただきます。ただ、調査の方法や時期についてはこちらに任せてください」
 僕の一任で調査の優先順位を変えることはできない。ひとまず、今応えられる範囲での回答をせざるを得なかった。Rさんはわかりました、それが法律なら、と渋々去っていった。

 更に数日後、Rさんは『告訴状』と題された書面を携え、意気揚々と署に現れた。

「会社を変えるにはもう刑事罰を与えるしかありません。ネットでいろいろ調べて、もはや刑事告訴するしかないと思いました。どうか会社を良い方向に導いてください」
 いったいどこの世界のインターネットを見たのかと思わず呻きそうになる。告訴を受理すると刑事事件として事案を処理することになり、今持つ他の事案を棚上げしなければならなくなるほど優先順位が跳ね上がるし、厳密な捜査を求められる都合上相応の時間を要することとなる。しかし、罰則を前提としての調査となるため、その存在を知った人もあまり申し出を行うことはない。なぜかと言えば、賃金不払の事例で考えてみると、あくまで告訴は罰則を課すべきかどうかの調査となるため、賃金を払わせるという方向の指導はできなくなるからである。
 だが、罰則を求めるというRさんの需要には噛み合っていた。不起訴になる可能性は非常に高いことを入念に説明したが、Rさんの正義に燃えた瞳は炎の勢いを緩めることはなかった。

 途中から主任も同席し、ひとまずは匿名の申告として法違反の有無を調査し、次は次で考えるしかないということになった。月末の会議で配られた僕の月間計画表には事案が普段よりひとつ増えていた。ついでに、厄介なフィリピン人パブの事案をようやく処理したばかりのE先輩も巻き添えとなっていた。


「まあ…たまにいるよねそういう人も」
 会社に向かう車の中で、Rさんの人となりについてあらためて話をしたところ、助手席でE先輩が苦笑いしながら続ける。
「前にいたとこの有名人だったんだけど、しょっちゅう病院の法違反を見つけては告発してたおっちゃんがいたんだよね」
「マジですか、告発調査以外の仕事できなくなっちゃいますよねそれ」
「もうほんとに大変。しかも私が関係者から聴取書とってる最中に取調室に勝手に入ってきたこともあってね。嘘をついてないか俺も聞かせてもらうーとか言って。今はどうしてることやら」
 純粋に、すごいなと思う。子供の時分にテレビの向こうの悪事に憤慨していた気持ちを、とうの昔に忘れ去ってしまった僕からすれば、ある意味尊敬すべきことだと思えた。
「Rさんも監督中に乗り込んでこないといいですけどね」
 冗談めかして言う。
「いやーさすがに匿名希望の人が乗り込んでは来ないでしょ。」
「そりゃそうですよねー」
 

 雑談しつつ30分ほど車を運転し、国道沿いの会社に辿り着く。一般的な調査です、原則抜き打ちなのでアポ無しで来ちゃいました、対応できる人いますかと受付でお決まりの文句を並べると、呼び出しを受けた社長が階段から降りてきた。

 怒鳴られるようなことはなかったが、しかし30分後には外出しなければならないため本日の対応は難しい、後日にできないだろうか、とのことだった。臨検自体に抵抗する社長だったらどうしたものかと思っていたが、そんなことはないようだ。ひとまず安心し、「では準備ができ次第連絡してください」と告げ、その日は署に戻った。

 数日後、社長からの連絡があり、2度目の臨検の日程が決まった。その旨も含め経過をRさんに伝えると、わかりましたとあっさりした返答であった。1度目に強制的に立ち入ることはできなかったのか、などと言われそうだなと予想していただけに、やや拍子抜けの感があった。


 そして約束の日、再度事業場に赴き、社長室に通される。テーブル、ソファー、棚、すべてに金がかかっているのが一目でわかる部屋だった。入口から奥側の席に通されてから、いつものとおりに調査の趣旨を説明し(情報があったことは伏せた上で)、書類に目を通す。15分ほど経った時点で本題に入ることにした。

「今拝見している36協定とか就業規則といった書類ですが、普段どこに保管されていますか?」
「事務室の棚に、関係書類と一緒に置いてありますが」
「あー、鍵とかかかる感じの棚ですかね?」
「そうですね」
「そういった労使協定とかは、いつでも見られる場所に置いておかなきゃいけないんですよね。鍵付きの棚というのは改善願いたいですね~」
「しかし、持ち出されても困りますから…希望があればいつでも従業員に見せていますがいけませんか」
 若干の抵抗を見せられる。こんなしょうもない違反、さっさと認めてくれればいいのに…と思っていると、E先輩が社長の背後、入り口側をちらちら見ているのに気が付く。

 なんだろうと思いちらりと僕も入り口側を見ると、窓に
『うそをついている』
とでかでかと書かれたA3用紙を掲げたRさんが立っていた。

 ぎょっとして慌てて目を逸らすが、社長も「ん?」と後ろを振り返る。すると、Rさんの姿は消えていた。どうやら、しゃがんで扉のわずかな隙間から会話を聞いているらしい。

 「それで、こちらの書類なのですが…」なにごともなかったかのようにふるまったつもりだが、自信はなかった。社長は一瞬怪訝な表情になるが、普通に会話を再開する。しかし、窓の外を気にするなというのは土台無理な話であった。

「有給休暇なのですが、あまり取得状況がよくないようですが、なにか対策は取られているのでしょうか」
「社員も仕事熱心で、積極的に取得するよう勧めてはいるのですがなかなか取ってくれないんですよ」
『言われてない』

「36協定の労働者代表の方なのですが、どのように選出しているのでしょうか?」
「労働者間で自主的に選んでもらっています。」
『聞いたこともない』

「この手当の支給基準は…」
ガチャリと、扉が音を立てる。

「なんなんだ社長!あんたさっきから!」
ついに我慢ができなくなったのか、Rさんが参戦した。してしまった。

 社長も最初こそ面食らっていたものの、すぐに気を持ち直し、「なんだお前!お客さんの前だぞ!」と応戦する。そこからは阿鼻叫喚であった。社長とRさんが怒鳴り合い、騒ぎを聞きつけた他の社員が到着するも、僕たちの前で唾を飛ばし合う二人を見てオロオロするばかり。話は僕たちなどいないものとばかりに発展し、36協定も見せてもらってない、法律を守らないのはおかしい、と繰り返すRさんに対し、守っている、けれどいちいちRさんに対して確認取ってたら一言一句にいちゃもんつけるだろうから見せてなかっただけだ、と社長もぶっちゃけた応酬。
 なるほど、普段からRさんは隠すまでもなくこんな感じなのかと思いつつ、僕はもはや目の前の闘争を止めることを諦め、ただただ早く帰れることを祈っていた。

 さて、怒鳴り合いとは存外長くは続けられないもので、30分も経たないうちに二人は息切れを起こした。その隙を狙って声を掛ける。
「お互いのご事情は分かりかねますが、本日はこれ以上お話をお伺いすることも難しいと思いますのでまた後日、今度は社長さんに来署していただいてもよろしいでしょうか?」
 Rさんはやや不満げであったが、「こちらも閉庁の時間が迫ってますので」と続けると特に文句は言われなかった。後日彼から「いやあの時はお恥ずかしいところを」と電話があり、自分が労基署に情報提供したことが社長にバレたが、これからは開き直って自分がこの会社を変えていくと熱く語られた。最初からこっちに話振らないでそうしてほしかったなあと思った。

 後日、来署した社長にもろもろの違反について指導文書を交付する。ちなみに、Rさんとの応酬のとおり、36協定等の各種書類はきっちり作成・提出がなされていたが、社長がRさんを噛ませるとめんどくさいことになると判断し、隠していただけであった。Rさんは乱入をきっかけにバレたものと思っていたが、やはり普段からあの調子であるらしく、初回臨検の時点で社長もなぜ僕らが訪問したのか察しはついており、ついに来たかと思っていたらしい。まあそりゃ当然そうするしそうなるよなと思ったが、口には出さなかった。


 ひと月後、是正期日の2日前に報告書が郵送されてきた。協定の周知義務違反については表紙に「是正については別添のとおり」と記載されており、資料をめくるとそこにはRさんが協定書を持って満面の笑みでカメラ目線を決めている写真が添付されていた。彼のようなメンタルを持った人間はきっとどこでも生きていけるのだろうな、と少しばかり羨ましさを感じるのであった。

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