友達であることの「証明」
中学生の頃、不安で仕方がなかった。
「僕が友達だと思っている人は、本当に僕のことを友達だと思ってくれているんだろうか」
目の前の友達と一緒にいても、笑いあっても、遊んでいても、その不安は一向に無くならなかった。
友達っていうのはこんなものだと思っていた。
休み時間に一緒にいること。
学校が終わったら、一緒に帰ること。
休みの日に一緒に遊ぶこと。
友達だと思われているか試すために、話しかけられるのを待ってみたり、遊びに誘わないで、誘ってもらうのを待ったりもした。
ある時は話しかけられてこの「友達実験」は成功したこともあったし、外れて落ち込むこともあった。
こんなことをしていたせいか、休み時間に友達が他の人たちと喋っていると余計不安になった。
帰りが一緒じゃない時や、土日どちらも遊べない日があると「自分は友達としてのランクが低いんじゃないか」なんて思うことも。
ある日の学校からの帰り道、地下鉄の改札から出たところで、一人の「友達」に打ち明けてみた。
「友達から、本当に『友達』だと思われているのか、不安なんだよね」
別に何か言葉が欲しかったわけじゃない。いや本当は欲しかったのかもしれない。「俺は友達だと思っている」とか、何か友達の証になる言葉。
「友達」の答えはあっけないものだった。
「俺もそう思う」
素朴な答えだった。
どうしてか分からないが、この時ほどこの「友達」が信頼できるやつだと思ったことはなかった。
自分と同じ悩みを抱えながらも自分と一緒にいてくれるから。そして上っ面の「友達」という言葉を使ってごまかそうとしなかったから。
言葉にしてみても、いまだにしっくりくる答えにはたどり着いていない。
でも少なくとも「友達だと思ってくれているかどうかなんて、結局は分からない」ということは分かった。「友達だと思っている」と言ってもらったとしても相手の心の中を本当の意味で知ることなんてできない。
いちいち友達だと思ってもらえているかどうかなんて、あまり気にならなくなった。あれやこれや考えたり、「友達実験」をしてもネガティブな方向にしかいかないことも知った。
高校まで一緒だったその「友達」とは違う大学に行き、社会人になってからは一層会うことも少なくなった。それでも年に1回ぐらいは顔を合わせ、バカみたいな話をしている。
よく覚えていないが、自然とそういう流れになった。
その時一緒に飯を食う、一緒に帰る、話す、笑う。友達っていうのは、それが「たまたま」続いている存在なのかもしれない。
できればこの「たまたま」がもう少し、いや、ずっと続いてほしい。
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