【トップガン・マーヴェリック:好き勝手な感想いろいろ】

オープニングの曲(Top Gun Anthem)と画面の構成,進行,キャスト名を記す文字のフォントに至るまで,1作目と99.9%同じだったのがまずうれしかった。

異なっていたのは,冒頭で画面に映し出される長文の末尾

"Today, the Navy calls it Fighter Weapons School. The flyers call it:"

に続く画面中央の

TOP GUN

のロゴの下にMAVERICKの一言が加わったのみ。

「やはりこうでなくっちゃいけないよね」と思えるような,パターンを変えてしまうとしっくりこないようなものが,映画にしろ演芸にしろ文章での言葉の選択にしろいくつもある。

演芸で一つ例を挙げるならば,落語「芝浜」の最後の一言もそうである。あそこはどうしても「また夢になるといけねぇ」または「夢ンなるといけねぇ」でなくてはならない,一字一句その通りでなくてはならないとさえ私は考えている。

「また夢になったらどうするんでぃ」なんていじってしまったスットンキョウを私は認めていない。それに似た感覚で,トップガンのオープニングはあれしかない。

あくまで私的な感じ方・捉え方ゆえ,当然異論は認めつつ,逸れた話を元に戻す。

映画全体の構成としては,ひたすら戦闘機がビュンビュン飛び回るだけのシーンが大半で,な〜んにも考える必要はない。ハラハラドキドキ,アドレナリンドバドバ,最後にスカッと。これに尽きる。

とはいえ,ここに少し,あそこに少しと,第1作からマーヴェリックが引きずってきたトラウマのようなものや,それに伴う他者との確執や摩擦なども織り込まれていた。押さえるべきところはちゃんと押さえていますよ,という意思表示としてスムーズに受け止められた。

いくらか考察や解釈の試みを促した言葉に「考えるな,行動せよ」の一言があった。この言葉ともう一つのシーンから,こんなことを思った。

  1. 戦闘機で敵と対峙し,生きるか死ぬかの状況に身を置く者たちであればこそ,悠長に考える暇などない。先んじて行動しなければ負けであると考えるのはもっともである。

  2. アメフトのシーン(第1作ではビーチバレーだった)に垣間見えたのは,それらに象徴されたある意味粗野でマッチョでシンプルなアメリカンスピリットそのものである。

1と2を合わせ「行動と鍛錬とそれらに伴う経験値をひっさげて何はともあれ動け」と駆り立てるメッセージはごく単純で,それに対する私の受け止め方もまた単純であればこそ,強く背中を押され,尻を叩かれた。

もう一つ印象に残ったのは「俺はパイロットだ,教官じゃない」というマーヴェリックの一言だった。さらに,自分がパイロットであることについて「That's not what I am. That's who I am.」(それは職業じゃない。俺そのものだ)というようなことも言っていた。

自分が自分であるためには,指導者やリーダーではなく,どこまでもプレーヤーでありたいと信じる気持ちに似たものを,私も持っている。もしかすると,プロのスポーツ選手の中にも,本心では同様に考える人たちは少なくないかもしれない。私の場合,エラくなりたいとか,人の上に立って後進を育てたいとかいう考えはほぼ皆無に近い。

リーダーや指導者という存在がこの世に必要であることは言うまでもない。しかし,プレーヤー(やや大げさに言い換えるならばある種の「職人」)としてしか,私は自らを捉えられない。過去の失敗に由来するトラウマも,表立っては言いにくい負い目もたっぷりある。そのために,とても人を指導できるような立場ではない。少なくとも私は,現時点で自分自身をそう捉えている。

マーヴェリックの場合はむしろ,最強のパイロットとしての誇りがなくなった瞬間に自分自身が崩れ去ると考え,強く恐れてもいたように思う。だからこそ最後まで,自ら飛ぶことにこだわり,自分を保とうとしたのではないか。「ラストサムライ」で,侍の何たるかについてその一端を知り,勝元と共に最後まで死力を尽くしたオールグレン大尉の姿ともうっすら重なるのを感じた。

そういったことを全部すっ飛ばして,単純な「ドンパチ映画」として観ることに徹しても,初めからしまいまで飽きることは一切ない。2時間あまりで心のモヤモヤを吹き飛ばしてもらえることは間違いないと思う。

やっぱり,劇場の大画面で映画を観るのは,精神衛生のためにもぐしゃぐしゃになったアタマの中身のためにもたまには必要だなぁ。

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