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言っていることがわからない時どうするか

2月22日

朝、仕事場に持って行くハーブティーの入った水筒がカバンの中でダラダラとこぼれていた。
中のパッキンがちゃんとついていなかったらしい。なんでこんなにドボドホこぼれんのさ、と蓋を開けてみたら、パッキンがジョボンとハーブティーの中に落ちた。

あー
最悪だ。

鞄の中で液体がこぼれることの嫌さってとてつもないものだ。一度牛乳パックのスクリューキャップタイプのやつがこぼれていた事があって、「うっっわ!」「最悪!」とか結構でかめにコンビニ内でつぶやいていた気がする。

パッキンがジョボンと落ちたとき、なにか一線を超えてしまって、蓋を上に被せて、ハーブティーでビタビタに濡れたままの床をまたいで仕事に向かった。

菜箸か何かを使ってパッキンをとって蓋を締めて持っていったり、床をふいたりする自制心が私にはなかった。もはや無心になってその場を後にした。嫌すぎて。


それから仕事中には、腕の上の方まである長い手袋を使っていて、手袋を上まで引き上げようとした時、掴んでいた手袋から手がすべって、その勢いを保ったままの右腕が私の口めがけて飛んできた。痛いじゃんね。なんなん。クソが。

なんだかずいぶんドジで嫌な日だ。
伊集院のラジオにある、イタゴラスイッチの始まりじゃないかと思ったりした。

イタゴラスイッチとはNHKのピタゴラスイッチのもじりで、神様が与えた嫌がらせみたいな悪いことが連鎖する状態の事で、伊集院のラジオでそのような状況を大喜利のように募集していた。


そんな事になるのもやっぱり徳が足りないんじゃないか、ってことで会社の前の道のゴミ拾いを慈善活動としてやってみた。

なんか知らんけど会社の前の道がゴミだらけになっている。ちなみに会社の前ではなくて、会社の前の道に面した空き地っぽい場所にたくさんのお菓子の袋とか、ビニール袋に入ったゴミとか、ペットボトルとか、缶とか、瓶とか、プラの容器とかがたくさん落ちている。

マック捨てんな。フライパン捨てんな。皿捨てんな。発泡スチロール捨てんな。近くのスーパーの惣菜の容器捨てんな。不法投棄すんな。人間性と倫理観腐ってんのか? そこで捨てなければならない論理的な合理性を理解することが出来ない。その論理性と同等の論理性において自分の家のゴミ箱に捨てろ。その合理的な優劣について私が計算した限りにおいてナノメートルほどの誤差もないぞ。だから不法投棄をやめて家のゴミ箱に捨てなさい。

道の反対側にもペットボトルとか缶とか捨ててあるんだけど、皿が3つ並んでいたりした。

それはそれで何か嫌だ。これって捨ててあんのかな、、、?みたいな感じになる。お供えものだとか、なんか意味があるのか?ってなる。それを捨てちゃうとなんか気持ちが悪い。



姉が会話についていけない時があったり、トンチンカンな事を言って、いやそこじゃないよ、とツッコまれたりするのはどうにかできないか相談された。

私の身近にも対話の理解力が低い人がいて、会話をすることの困難さを感じたことがある。姉の場合は高度で複雑になった時にわからなさがあるというものだった。

言っていることや、文章がわからないというのは、だいたい二つの理由によるんじゃないかと思う。

一つは「用語、単語の意味がわからない」で、もう一つは「構文的な要素を理解できてない」で、人文学の変なものや、高度に文学的なものでない限りおおかたの会話は構文的な側面を把握しておけば、そんなにおかしな事にはならないんじゃないかと思う。

もっと言うと主語と述語をしっかり把握すれば理解力はあがると思う。もっと言えば述語さえおさえておけばトンチンカンなことにならないと思っている。述語の中に相手の主張の本質があると思う。


わけわかんない文章も、構文を理解しておけば大方の理解できるでしょ?って提示をしたかったので本をパラパラ眺めていたけど、適切な文章が見当たらなかったので、高田明典の『難解な本を読む技術』の中で引用されているレヴィナスの文章しかないかなと思った。

 実存するものとこの実存それ自体との区別、個人、種、集団、神といった諸存在ないし実詞と、これらの存在が実存するという出来事ないし活動との区別は、いとも簡単に哲学的省察に課せられると同様、いとも簡単に哲学的省察から姿を消してしまう。

この文章の主語は「実存するものとこの実存それ自体との区別、個人、種、集団、神といった諸存在ないし実詞と、これらの存在が実存するという出来事ないし活動との区別は」で、述語は「いとも簡単に哲学的省察に課せられると同様、いとも簡単に哲学的省察から姿を消してしまう」で文章全体は複雑だし、意味自体は簡単にわかるものではない。

でも述語は、「〇〇は、哲学的な思考によく登場するけど、本当に真面目に考えられるのではなく、あっさりと姿を消してしまう」と言っているだけで難しいものではない。

だから述語にフォーカスすれば話の流れがわからなくなるほどトンチンカンな事にはならないと思う。

主語も、「【実存するもの】(A)と【この実存それ自体】(B)との区別、【個人、種、集団、神といった諸存在ないし実詞】(A')と、【これらの存在が実存するという出来事ないし活動】(B')の区別は、」という感じで整理することでわかりやすくなる。つまりA=A'、B=B'というだけの文章で、構文に注目すればなんてことない文章である。
それらの意味自体は?となると、一般的には容易ではないけど。
ただなんかこの説明でいいのかなと思った。
会話と文章だと違うということもあるし。



さらに、パッと見た感じ複雑でわからなそうだけど、構文に着目すればよくわかる、という文章のいい例を探して、柄谷の『トランスクリティーク』を開いてみた。でも「パッと見た感じ、複雑でわからない」というような事とは真逆の、構文的に最も整理されていて、明解で、簡潔に表された文の最たるものみたいなものでしかなかった。なんかもう美しい。

 ニーチェは『道徳の系譜学』や『善悪の彼岸』において、道徳を弱者のルサンチマンとして批判した。しかし、この「弱者」という言葉を誤解してはならない。実際には、学者として失敗し梅毒で苦しんだニーチェこそ、端的に「弱者」そのものなのだから。彼がいう運命愛とは、そのような人生を、他人や所与の条件のせいにはせず、あたかも自己が創り出したかのように受け入れることを意味する。それが強者であり、超人である。が、それは別に特別な人間を意味しない。運命愛とは、カントでいえば、諸原因(自然)に規定された運命を、それが自由な(自己原因的な)ものであるかのように受け入れるということにほかならない。それは実践的な態度である。ニーチェがいうのは実践的に自由な主体たらんとすることにほかならず、それは現状肯定的(運命論的)態度とは無縁である。ニーチェの「力への意志」は、因果的決定を括弧に入れることにおいてある。しかし、彼が忘れているのは、時にその括弧を外して見なければならないということである。彼は弱者のルサンチマンを攻撃したが、それを必然的に生み出す現実的な諸関係が存することを見ようとしなかった。すなわち、「個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである」という観点を無視したのである。

このように哲学するのだという感じさえする。というかこう哲学したい。
姉にどのように説明するかはまた考えよう。

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