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記憶と重要なもの (日記)

11月25日

5ヶ月ぶりくらいに美容院にいった。
担当の美容師と音楽の話をした。

結果的にはラルクの話で盛り上がったけど学生の時になにを聴いていたか全然思いだせなくて困った瞬間があった。脳が記憶のデータを検索することを拒んでいたかのように意識がぼーっとしていた。二日酔いのせいかもしれない。

兄がよくCDを買っていて、私はそれを聴いていたのですごく変な影響を受けていると思う。兄は音楽をやっていたバイト仲間から紹介されたCDを買っていて、洋楽メインのインディーズも混じった商業性が排除された独特の個性によって選抜されたジャズからハードロックまでのCDがいろいろ家にあった。

物として沢山あったから思い出せる事よりたくさんのものを聴いていたし、たくさんの事を感じていた気がするけど全然思い出せないし実感がない。もう記憶はないし過去はなくなったのかもしれない。私の記憶になければ私の経験はどこにも存在しないのだ。

聴いていたマイナーなものは引用しないけど表面的には中学の時はラルクに熱中していて、そのあとギターを始めたりしてレッチリをよく聞いていて、レッドツェッペリンとかキングクリムゾンとかを経て、トゥールに落ち着いていた。トゥールの不気味で怖くて力強くて仏教的で宇宙的で呪術的な「ラタララス」の感じがいいなと思っていた。

美容師と話した時はレッチリを聴いていた事くらいしか自分では思い出せなかった。レッドツェッペリンの話題になってはじめてツェッペリン聴いていた事を思い出した。

CDとか漫画とか物として残ってないと、経験自体忘れていっている気がするし、内容や感じたこともどんどん思い出せなくなっている気がする。まあ忘れてもいいのかもしれないけどクリエイターとかアーティストの人は創るものにアイデンティティみたいなものが関わってきそうなので、過去を忘れてしまうのはどうなんだろうとも思う。あと懐かしさみたいなものは人の内面的な豊かさに関係していそうだけど、人にとってそれがどこまで重要なのかはよくわからない。今現在充実していたり、大変な事をやっていたら昔のことなどどうでもいいもんね。


11月26日

自分の関心のあることを本当の意味で見つけるのは結構難しい。自分の好みって自分が思っているようなものではないことがあるから。どのようにして自分について知ることができるだろうか。

人生をかけて取り組んでいくようなものって思いもよらない気付きに導かれたりする。偶然が重なってライフワークのようなものを見つけることがあるし、熱中したものや関心を向けたものにその後全く見向きもしないことはほぼすべての人が経験する過程だと思う。


ハイネの『精霊物語』の冒頭を少し読んだ。

‥‥よく言われることだが、ヴェストファーレンには、古い神々の聖像がかくされている場所をいまだに知っている老人たちがいるということだ。彼らは臨終の床で、孫のうちでいちばん幼いものにそれを言って聞かせる。そしてそれを聞いた孫は、口のかたいザクセン人の心のなかにその秘密をじっとだいている。むかしのザクセン領だったヴェストファーレンでは、埋葬されたものがすべて死んでしまうわけではない。そして古い樫の森を逍遙していると、いまでも古代の声が聞こえてくる。そしてマルク・ブランデンブルクのすべての書物よりもはるかに充実した生命がわきでてくるあの深遠な呪文の余韻がいまでも聞こえてくる。かつてこの森を歩きまわりながら、あの古代のジークブルクのそばを通ったとき、わたしの心はある神秘な畏敬の念でいっぱいになった。「ここに」とわたしの道案内の男は言った、「そのむかしここにヴィテキント王が住んでいたのです。」そして彼は深くため息をついた。その男は素朴な木こりで、大きな斧をぶらさげていた。
 この男は今日でももし必要とあれば、ヴィテキント王のためにこの斧をふりかざして戦うことだろう。この斧に打たれた頭蓋骨はまったくたまったものではない。

「古い樫の森を逍遙していると、いまでも古代の声が聞こえてくる」とか「マルク・ブランデンブルクのすべての書物よりもはるかに充実した生命がわきでてくるあの深遠な呪文の余韻がいまでも聞こえてくる」とか「古代のジークブルクのそばを通ったとき、わたしの心はある神秘な畏敬の念でいっぱいになった」って部分が良いなと思った。そうそう、こういうことだよ、私が好きなのはって感じがした。

文化や歴史や言語の中に重大なからくりがあるみたいな感じ。重要な神秘に触れているみたいだし、想像もつかないようなつながりが今の自分達に影響しているみたいな視点。

いま手元に本がないので正確に引用できないけど、ノースロップ・フライがウィリアム・ブレイクの詩について述べる中で、「ブレイクの詩には17世紀の欽定訳聖書の律動が鳴り響いている」みたいに書いてあったけど、それもなんか最高だ。すごい研究だ。現実的にはなんの役にもたたないけど。今の英語を作ってきたのは聖書の翻訳者達だみたいな話も、いまの聖書を読む時には壮大なものに触れるような感じを与えてくれそうでいい。

でも私が現実に歴史的な物の前で実感することは、いつもちっぽけな感覚でしかないのはあまり声を大にして言えない、というか言いたくない。感受性というか想像力というか感じる力というか知性が全然ないのだ、たぶん。かなり限界を感じる。


11月27日


日本酒を飲んだ。


新潟県、池田屋酒造、謙信。
池田屋に謙信は歴史性の強いワードで印象が歪むのは私だけだろうか。

純米吟醸、生、愛山。
甘みが結構あるけど甘すぎない。旨口系の厚さと熟成感のようなものも感じる。程よく苦味があっていい。クリアな苦味というか洗練された苦味みたいなもので、全体とバランスもいい。
表記上では原酒ではないし濾過もしているようだけど、アルコール17度で生という選択をしているみたいなので、食中酒になるように絶妙なこだわりをもったお酒かもしれない。

熟成感は製造から時間が経っているからかもしれない

豪州産牛肉のカイノミを焼いて一緒に飲んだ。このお酒はほんのり旨口で重すぎずベタベタしないから結構合うと思う。苦味もお酒が肉に負けないような芯になるのでいい。



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