見出し画像

日記みたいなラフなものを書く時の具合 (日記)

1月8日

CES 2024がラスベガスで開かれるらしい(1月9日からなのでもう始まっている)。
それが何なのか全然知らないけど、AIが注目されるというのでこの記事をなんとなく読んだ。

色んな企業の最新技術の展示会みたいなものらしい。
それをラスベガスでやる。ラスベガスなのか、、、へー、、ふーん、、、みたいなね。

23年はまだAI技術の発展途上というか出始めて間もないという感じだったけど、24年は結構がっつりAIを活用した技術が企業から登場するっぽいみたいな事が書いてある。この記事は1月7日の記事で、CESは1月9日なので実際どうなのかは調べればわかるかもしれない。

記事の中で、CESを主催する米民生技術協会(CTA)の最高経営責任者であるゲイリー・シャピロは、AIは技術が発展して一般化するにつれて影を潜めることになるだろう、と述べていると書いてある。

新しい技術によって儲かる人はいるのかもしれない。でもたぶん私は関係しないし、車のAI技術が格段に上がりますといっても、それは便利で良いね、というだけの話。ゲイリー・シャピロが一般化するだけだって言ってんの良いなと思った。AIで世界が変わるみたいに言うけど、今までの日常に少し便利なAIが混じっているっていう変わらない日常が続いていくんだと思う。
というか世界が変わるってつまりどういう事だろう、、、


前にみたある記事では、生成AI技術を提供していくのは大変な量の電力が必要で環境への負担があると書いてあった。その記事は検索しても出て来ないけど似たような記事はたくさんある。なんでそんなに電気が必要なのかchatGPTに聞いたら、情報処理に電気が必要であると言われた。へーそうなのか。

テキストは大したことないけど画像の生成などの複雑な処理が大変だと言っていて、画像生成技術を提供する一つのサービスには、数十万世帯から数百万世帯が使う電力を必要とすると書いてあった。

川崎市が75万世帯、横浜市が180万世帯。
だから生成AI技術の提供は都市一個分の電気が必要という話。

画像生成とか負荷のかかる情報処理をするのに都市一個分の電気が必要だけど、環境保全が重要だと議論する世界で、可愛い女の子の画像を生成していくって地獄みあるなと思った。
そして私もテキストでAIを使ってその地獄の加担者になります。
世界って結局そんなもんですよね。



片付けられないのは片付けを習ってないからだとあった。

確かに片付けって習ってないな。
きれいな部屋って精神衛生上すごくいいと思う。私の部屋は本が数千冊あるし衣類も多いし片付けをしないからかなりごちゃごちゃしている。収納の許容量と物の量が全然合ってなくて思考停止に陥り、まあいっかとなることがよくある。この記事でも書いてある、そもそも物が多いって。

私の部屋はちゃんと整理すればきれいになるので、何かしらの頭を使うパズルみたいなものの問題をずっと問われている感じがしている。



記事を見たあと、資源ごみの回収日なので瓶を捨てないといけないと思いながら、あー眠いとか思いながらゴロゴロしていると、枕元にまだ片付けていない村上龍の本があって読みはじめていた。

『全ての男は消耗品である』という日記というかブログみたいな形式の村上龍の文章をまとめたもの。ボリューム5のやつ。名前は聞いていたけど最近はじめて読んだ。めちゃめちゃいい。著者の言葉を直接聴いているみたいでいい。

あと村上龍って意見も主張も思想も強いし物事をよく考える人で、一つの事を深く考えるのはもちろん、世界のこととか日常にあるものに対しても幅広く考えるという意味で、よく考えるという感じがある。

だからこの本には日常の事も書かれてあるわけだけど、その深さのバランスがちょうどいいなと思う。日常のどうでもいいことだったとしても結構しっかり考察されているみたいなバランス。逆に作品の事とか何かあるものへの痛烈な批判で、生半可に書けないテーマでも明解だったり表現が単純だったりで読みやすくなっている気がする。

『KYOKO』という映画を撮っていて言語や文化の違う人とうまくコミュニケーションをとれたり、作品が高評価を得たりしたとき独特の快楽があると書いている。

 『トーキョー・デカダンス』というタイトルで『トパーズ』が上演され、キャパが八百近い大きい映画館が超満員で、大きな拍手で迎えられた時、本当に、足が感動で震えた。
 こういったことはクセになる。
 知らず知らずのうちにムチャクチャうまいワインを飲んでしまったようなものだ。
 もうまずいワインは飲めないし、私の脳細胞はまずいワインのためには一分も稼働しようとしないだろう。
 すごく楽しい旅をして、退屈な日本に戻る時、私はいつも呟いたものだ。
 「あーあ、終わったか、でも面白かったからいいや」
 何とかして、『KYOKO』で味わった快楽を、さらに増幅させて何回か経験したい。
 体力のない老人になって、あたふたしないためには、つまり「でも、面白かったからいいや」と思うためには、それしかない。
 田舎に銅像が立っても、老人になったり死んだりしたら、そんなものクソみたいなものだからな。

楽しい事があって終わったあと「楽しかったからいいや」と思ってきたと書いているけど、私は「楽しかったからいいや」と思ったことがないのでそれいいなと思った。

あと最後の、銅像が立っても老人になったらそんなものクソみたいなものだ、って部分がめちゃくちゃいい。そんな事言うと思わなかったというギャップがすごい。

私は村上龍の事をかなり誤解して認識していた。文学史上で名前の残る人だし、文学の中でも政治性とかある方で硬いイメージだったし、社会や経済について関心を持っている年配の常識的な人間をイメージしていて、前述のような事を書く人であると思ってなかった。

でもよく考えればデビュー作で乱交シーンを描いていたし、思想が強いし、アンダーグラウンドの文脈に造詣が深いわけで、まさにそういう人なのだと実感した。この本が刊行されたのは98年とかで20年以上前で当時はまだ40代とかなのでそういうこと言ったりするかなと思った。

あとこの一連の「すべての男は消耗品である」の文章はラフな形で書かれているので、急にちゃめっ気を出してきたり、文章の途中で(あー眠い)とか書いたり、日常のズボラ感をわざと出したりして、私の先入観によるギャップも相まって声に出して笑ったりした。今の30代の自分達くらいのちゃんとしてない感がしっかりある。

村上龍の本を本屋で立ち読みした時は「人に欲しいものを聞かれて、ないと答えた」というような部分を読んだ。お金もあるし、女もいらないし、洋服も山程あるし、というような感じだったと思う。

名誉も腐るほど得たし、文章を書く仕事もできているし、やりたいことは出来るだろうし、行きたい場所には行けるだろうし、欲しいものは買えるし、確かに欲しいものなんてないのかもしれない。

文章を書き続けることや何かを創り続けることって大変だから、文章を書くことが好きなのかどうか知らないけど、何も欲しいものはないし、やりたい映画作りもできているし完璧すぎてすごい。人間はどうしてこうも違うのか。

私はなにが欲しいのだろう。
お金が欲しいとかなんとか色々あるのかもしれないけど、本質的には何も欲していない気がする。何かが欲しいけど努力して求めないってことは、それを欲してないって事だと思っているから、基本的には村上龍と同じようになにも欲してないのだと思っている。
もし欲するなら何かを欲するための意欲が欲しい、、、


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?