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「もう少しも小さくないたかちゃん」

 長く連載させていただいているエッセイ「海馬が耳から駆けてゆく」に時々出てくる、小さいたかちゃんに、先日会って来ました。会って話すのは少し久しぶりでした。
 エッセイによく登場していた頃のたかちゃんは大学生で、埼玉の私の実家に下宿していました。
 もしそんな小さいたかちゃんのことを覚えていてくださる方がいらっしゃったら、私と同じに、驚かれるのではと思います。
 長くなるような気がしますが、おつきあいいただけたら嬉しいです。

 小さいたかちゃんとエッセイの中で書いているのは、たかちゃんの上のお兄さんとたかちゃんの名前が一文字違いなので、大きいたかちゃん小さいたかちゃんと分けて書いていました。
 それだけでなくたかちゃんは、15人いるいとこの一番下の子で、4人兄弟の中でももちろん末っ子です。その4人兄弟も、一番上の兄とは15歳、大きいたかちゃんとも7歳離れています。スーパーエリート超末っ子です。
 たかちゃんは私が10歳のときに、突然生まれて来ました。そんな感じでした。何しろ上のたかちゃんとも7歳離れてますから、唐突に生まれて来ました。
 私は丁度、父が亡くなってばあちゃんちの近くに母と弟と引っ越して、よくたかちゃんと遊んでいました。スーパーエリート超末っ子たかちゃんは、子どもの頃からものすごく人に愛される才能を持っていたと思います。私はたかちゃんが可愛くて可愛くて、歩くようになってからは自転車の幼児用の前カゴのところにつける椅子に乗っけて、散歩に行きました。遠くに行けば行くほどたかちゃんが喜ぶので、いつもたくさん自転車で走って、帰ると心配を掛けていて大人に叱られたりしていました。
 たかちゃんが物心ついたときには一番上のお兄ちゃんがもう大学生だったので、たかちゃんが小学生くらいのときに話していて驚くべきことに気づいたのにも忘れられません。
 兄の話をたかちゃんとしていて、私は何かがおかしいと思いました。
「ねえ、たかちゃんはあんちゃ(たかちゃんの一番上の兄)のことを、なんだと思ってるの?」
「じいちゃんの子ども」
「……!! あんちゃはたかちゃんの一番上のお兄さんだよ!」
「え!? 嘘ー!!」
 兄はもう盆と暮れくらいしか帰って来ない遠い人だったので、たかちゃんは長いこと実の兄を叔父さんだと思っていたのです。
 私が高校生のときたかちゃんを駄菓子屋さんに連れて行ったら、
「お母さんとそっくりだなあ」
 と、たかちゃんの母親に間違えられました。
 私の中ではたかちゃんは、そんな頃でいつまでも止まっていました。

 たかちゃんはお年寄りにも、子どもにも本当に愛されます。
 そのたかちゃんが叔父だと思い込んでいた兄の娘達はたかちゃんが大好きで、幼い頃、
「たか兄ちゃんと結婚するの!」
「あたしがするの!」
 と姉妹喧嘩をしていました。
 通りすがりの残酷な大人、すなわち私が、
「たかちゃんはあんたたちの叔父さんだから、結婚はできないんだよ」
 そう教えると、姉妹は声を上げて泣きました。
 あのときはごめんね……。

私は15人いるいとこたちのことを日々考えるわけではないですが、たかちゃんとその兄弟とは本当の兄弟のように育ったし、私は独り身なので、自分の家族を持ったいとこたちよりはまだ彼らのことを考える時間があるかなと思います。
 たかちゃんのことも、時々考えていました。
 愛される才能を持ったたかちゃんは、少し掴み所がないような気もしていました。
 大勢の大人たちの中に生まれて、子どもの頃からみんなに愛されて、でもわがままもあまり言わず、人の気持ちに良くない触り方をしない子だったと思います。
 家族にとても愛されたけれど、高校生で野球部の強いところに行きたいと寮のある高校に入って実家を出て、大学ではうちに下宿して、そのまま東京で介護士の仕事を始めました。
 たかちゃんの父親である叔父自身は経営者だったので、たかちゃんが介護士になると言ったときに大賛成はしていなかったのを覚えています。
 男ならもっと自分を試すような仕事があるのではと叔父が言っていたときも、たかちゃんは困ったようにただ笑っていたような気がしました。
 私にはわからないけれど、たくさんの家族、人に囲まれて、たくさん愛されたたかちゃんには、たかちゃんなりの何かもしかしたら苦労や思いがあったのかななんてもし聞いたりすると、
「そんなのなんにもないよー」
 そんな風にたかちゃんは笑いそうです。

 何年か前に、長年の友人である月夜野のお父さんが、デイサービスを利用し始めました。
 そのとき話を聞いていて、
「あ、そこたかちゃんの勤め先じゃないかな?」
 そう言って名前を教えると、月夜野のお母様がたかちゃんを訪ねて行ってくださいました。
「のんちゃん(私です)のいとこさんとはとても思えないわー! 明るくて朗らかでもうみんなたかちゃんが大好きよ!」
 月夜野のお母様には先日も、
「痩せなさい!」
 と言われまして、時折実の母並に遠慮のないおつきあいをさせていただいております。
 何年か前から、月夜野のお母様はボランティアを始めました。ここからは、Kさんと表記します。
 Kさんはラジオ深夜便を聞いていて、「傾聴ボランティア」というものがあると知りました。
 伴侶に先立たれた独居老人、被災者など、独りで悲しみの中に過ごしていらっしゃる方の嘆きを、ひたすら聞く。そういうボランティアかと思います。
 とても行動派のKさんは、以前旦那さんがお世話になったデイケア施設の系列であるグループホームが近所にあるので、そこに入居しているお年寄りのために傾聴ボランティアができないかと訪問して相談しました。
 そこで対応したのが、たかちゃんだったそうです。
 時が経っていたので、お互い最初は気づかなかったそうです。
「傾聴ボランティアは確かに必要ですが、悲しい話を聞き続けるのはKさんの負担が大きいかと思います。何か楽しいことをみんなでするようなボランティアはどうでしょう? 何か趣味や特技があったらよかったら教えてください」
 Kさんはたかちゃんにそう言われて考え込んで、合唱サークルに入っていることを教えました。
「じゃあみんなで歌いませんか?」
 たかちゃんの発案で、合唱サークルの方も誘ってグループホームのお年寄りと月に二回歌うことになり、最初の歌集はたかちゃんが手作りしたと、この間Kさんに見せてもらいました。
 そこから数年、私が月夜野の家に遊びに行くと、いつもKさんはたかちゃんの話をしました。
「のんちゃんが来たわって言うと、そんな近くまで来てるなら遊びに来てっていつも言うのよ。行きましょうよ」
 毎回言われましたが私は、
「そういうこと言う子なの。かわいがられキャラなの」
 そんな風に言って、取り合いませんでした。
 年末に、たかちゃんの母親である叔母が体調を崩して、その話を聞いている最中に叔父がお腹が痛いと言いました。
 私はばあちゃんにお花を上げて叔父とお茶を飲んで帰ったのですが、ノロウイルスなのではと気に掛かって、近くに住んでいる大きいたかちゃんに様子を見に行ってとメールをしたつもりでした。
 ところが何しろ名前が一字違いなので、間違えて小さいたかちゃんにメールをしてしまい、遠くのたかちゃんを心配させる結果になってしまいました。
 そのメールのやり取りの中で、
「のんちゃんKさんのところに来てるなら、ホームに遊びに来てよ」
 と、たかちゃんが書いてきました。気軽な文章でした。
 たかちゃんは今そのグループホームのホーム長で、この間会報をKさんに見せてもらったので私は写真に撮って叔父と叔母に見せたところでした。
 二人はとても感慨深そうで、たかちゃんが介護士になるときにもしかしたらあまり賛成ではなかったのかもしれない叔父が、
「あいつはすごい」
 と呟きました。
「最初から自立心があった。高校も大学も就職も全部自分の考えで一人で決めてすぐに家を出て行って、親を頼ることもなかった。あいつのことはわからないけど、あいつはすごい」
 叔父がたかちゃんをそう称えて、叔母は、
「あんなややがなあ」
 と言いながら、ホーム長としてのたかちゃんの写真を愛しそうに眺めていました。
 「やや」というのは、赤ちゃんという意味です。
 たかちゃんはもう二児の父です。
 けれど私も叔母に、「ややが、すごいよね」と、笑いました。
 間違いメールをしたのでなんとなく観念して、私はKさんと一緒にたかちゃんのホームに歌いに行くことにしました。
「何を歌うんですか。練習していきます!」
 Kさんに言うと、そんなにはりきらなくていいと笑われました。
 その合唱ボランティアの日はたかちゃんは休みだったのですが、私に会いに来てくれるとのことでした。

 私は多分その日まで、たかちゃんのことを、「やや」だと思っていました。
 自転車に乗せて遠くまでとせがまれて一緒に夕方のあぜ道を走った、たかちゃんのまま覚えていました。
 ホームに行くと、たかちゃんはすぐに出て来てくれました。
 何も変わってません。
 忙しいのか少し顔色が良くないことが気になるくらい。
 私はたかちゃんとは少し話してお土産を渡して、Kさんたちと歌おうと思っていました。
「いとこののんちゃんです」
 職員さんに紹介されたので、
「いつもお世話になっております」
 そう頭を下げるとたかちゃんは、
「なんか親が来たみたいで恥ずかしいよ」
 と笑いました。
 ボランティアの方と接する時に、
「それはわたしがしますね」
 と丁寧にゆっくり話すたかちゃんに、少し驚きました。
 すぐ歌が始まったのですが、「のんちゃん」とたかちゃんに呼ばれました。
 いつもと何もかわらないけれど、私が覚えているより静かで小さな声でした。
「うちはほとんど認知症の方のグループホームなんだ」
 二十人いない入居者の方々と、Kさんたちが歌う姿を眺めながら、たかちゃんが言いました。
「重度ではなさそうだね」
 認知症の方もいるのかなとは思ったけれど、みなさんがとは気づかなかったので、軽い方々なのかなと呟きました。
「重いか軽いかは関係ないんだ。認知症になるとね、ご家族が受け入れられなくなることがあるんだよ。それはご家族が悪いんじゃないんだ。家族だから怒ってしまうことってあるんだよ」
 聞いていて、それは私もわかる気がしました。
 ばあちゃんの亡くなるまでの二年くらい、ばあちゃんは年齢なりにぼんやりしていました。同じことを何度もずっと言ったりもしました。
「ごはん炊けたか?」
 ばあちゃんは、家族がちゃんとごはんを食べることを亡くなるときまで気に掛け続けたので、私はばあちゃんのそばにいると何度もそれを聞かれました。
「今炊いてるよ。ばあちゃん」
 私は百回でも同じようにこの質問にこうして返事ができたけれど、それは私は孫だし、ばあちゃんと暮らしてはいなかったからで、実の親だとまたきっと違うのだろうとは最近実感していたことでした。
「でもね、怒られると認知症はストレスで早く進行してしまうんだ。だから、ご家族のためにも、ご自身のためにも、ここにいる方がいいこともあるんだよ。あとね、独り暮らしの方。ボヤを出してしまったり、包丁でうっかり指を切ったりしてね。もう独りにはしておけないと行政が判断した方に、ここに来ていただくんだ」
 段々と私は、たかちゃんが、私が思ったように子どものころのような気持ちで、「のんちゃん遊びに来てよ」と言ったのではないと気づきました。
「でもね、ここでは、そういう方にももし料理がしたければ火も包丁も使ってもらうの。今までしてきたことと同じことを、俺たちがそばで見守って危なくないように気をつけて、普通の生活をしていただくんだよ。ごはんも毎日、みんなで作る。すごく特別なことじゃなくて、普通にね、今まで生きてたのとなるべく同じ暮らしをしてもらって過ごしたいんだ」
 語るたかちゃんの声はとても穏やかで、たかちゃんは、知って欲しかったんだと私は今更気づきました。
 私に、というのとも違うかもしれません。
 たかちゃんは私が文筆業なのは知っているけど、私のペンネームも多分知らないし、こんな風に私を通して多くの人に知ってもらいたいわけでもなんでもないと思います。
 誰にでも、訪ねてくれた人に、知って欲しい。
 特別にというのではないのだと、そう感じました。
「テレビとか新聞とか、介護の現場は辛いニュースが多いかもしれないけど、いろいろなんだ。本当は、いろいろなんだよ」
 静かにたかちゃんは話しました。
「ここは地域に恵まれててね、Kさんみたいなボランティアの方も来てくださる。近くに敬老施設もあって、招いてもらったりしたらみんなで行くんだ。普通に散歩もするし、お花見もする」
 壁には、毎月作っているホームの写真の入った新聞が貼られていて、入居者の方と職員さんで出掛けた様子が写っていました。
「一泊旅行にだって行くんだ。ほら、ね」
 みんなで温泉に行ったときの写真を、たかちゃんは指差しました。
 途中、おばあさんが一人、合唱の中から抜けて歩いていらっしゃいました。
「どうしたの? ○○さん」
 ひとときもたかちゃんは、みなさんから目を離しません。
 目を離さないというか、たかちゃんが言った通り、見守っていました。
「私なんかいない方がみんな楽しいから」
 認知症の方の症状の特性かと思うのですが、そんなことをおばあさんはおっしゃいました。
 たかちゃんは両手でおばあさんの背中を抱いて、
「そんなことないよ。どうしてそんなこと言うの。みんな一緒に歌いたいよ。みんなで歌おうよ」
 決して、大きな声はたてず、囁くように根気よく繰り返して、おばあさんをゆっくりと輪の中に帰しました。
「ご家族だと怒ってしまうことも、俺たちはやっぱり家族ではないから怒ったり誰もしないで済むんだよ」
 そんなことを、たかちゃんは言いました。
「なんか、すごいなあ」
 私が呟いても、たかちゃんは、けれどほかの形を絶対に否定はしません。
「本当にいろいろなんだよ。ここはこういうところ。そうじゃないところもある。でもそれも間違いとか正しいとかじゃないんだよ。いろいろなんだ、介護も」
「私はここに入れた方は、幸せに見えるけど」
 思慮もなく、見たまま、私は言いました。
 それもたかちゃんは、肯定も、しませんでした。
 私の知らないそれぞれの事情がきっとたくさんあるのだろうけれど、それを語ることもしませんでした。
「認知症になってもできれば最後の日まで、特別じゃなくて普通に生きられるように。うちはそのお手伝いができたらいいなって思ってて、Kさんみたいな方たちに恵まれてね。Kさん、自分で売り込みに来たんだよ」
 Kさんと再会したときのパワフルさを語って、たかちゃんは笑いました。
「医療が、うちは弱い。看護師さんがいないから、注射や胃瘻や点滴が必要になったら入院していただかないといけない。でも本当はお家で亡くなるみたいに、ご家族と一緒に最期まで見送れたらそれがありがたい」
 たかちゃんはまだ、最良の答えを探し続けているようでした。
「たとえば、お母ちゃんがね」
 自分の母親のことを、たかちゃんは口にしました。
「お母ちゃん、年越しに蕎麦を打つじゃない?」
 じいちゃんが亡くなってから、それまでじいちゃんの仕事だった年越しの蕎麦を打つのは叔母の仕事になりました。
 叔母が蕎麦を打つようになって、三十年近くになります。
「もしお母ちゃんがここにいたら、お母ちゃんは今まで通り、年越しに蕎麦を打てるんだよ」
 グループホーム、老人ホームに、ネガティブなイメージを持つ方は多いと思います。
 自分の親を自分で見なくていいのか、世間は自分の親をホームに託す自分をどう思うのか、何より親はそれを辛いと思うのではないか。
 誰でも普通に考えることかもしれないと思います。
 たとえ自分が介護の仕事をしていたとしても、それでも自分の親のことは別に考えるのが普通かと私は思います。
 でもたかちゃんは、今自分が勤めているこの場所に、大好きな、大切な母親がいても、母が楽しく幸せに過ごせるんだよと、私に普通に語りました。
 自分の職場が誇らしいというのとも、違ったと思います。
 普通の、こういう人の暮らしの形もあるんだよ。
 そんな話でした。
 叔母の打つ蕎麦はとても美味しくて私も大好きですが、今回たかちゃんと話していて初めて、叔母自身も蕎麦を打つことを楽しんでいるのかなと思いました。
 たかちゃんは毎年、年越しに実家に帰れるわけではありません。今回は帰れていません。
 私が叔母のノロを心配したのは年末で、それで体調が優れなかったのか叔母はこの年越し、ばあちゃんが亡くなった年以外多分初めて、蕎麦を打ちませんでした。
「もう打てないって、買った蕎麦をくれたの」
 母がそう言って、叔母が買ったという蕎麦を元旦に茹でました。
 たかちゃん、お母ちゃん今年、蕎麦打てなかったよ。
 声にすることはできなくて、もしかしたら来年は叔母も蕎麦を打つかもしれないしと、私はたかちゃんにはその話はしませんでした。
 ここが入居者の方の場所で、ここはデイケアの方の場所でと、ホームの中を案内してくれました。
 お互いの親が歳を取ったことを案じる話をしながら、Kさんは本当に元気だと二人で笑いました。
「でもね、Kさんには本当に助けられてるけど、いつかKさんが少しでも疲れを感じるようになったらそのときまでで充分ありがたい。そうやって無理のないようにたくさんの人に助けられながら、ここはこんな感じで過ごせてるんだ」
 合唱の場所に戻って、私とたかちゃんも手を叩いて少し歌いました。
 私はふと、ずっと不思議だったことをたかちゃんに話しました。
「ばあちゃんが、居間のソファからほとんど動かなくなった最後の何年か」
 私は十年前に、この都内のホームの近くから、会津に転居しました。
 都会暮らし田舎暮らし、どちらもいいことも良くないこともそれぞれ違います。慣れるのには時間が掛かりましたが、一つ、十年前に会津に移って良かったと思っていることがあります。
 それは、大好きなばあちゃんの最後の何年かを、そばで過ごせたことです。
 大人になってなかなか叶うことではない贅沢をさせてもらいました。
 介護は全て、たかちゃんのお母さんである叔母がしました。
 要介護になった親は、嫁ではなく実の娘に介護を求めるとよく聞きますが、ばあちゃんは全く違いました。
 ばあちゃんには私の母を含めて四人の娘がいて、近所にそのうちの二人が住んでいます。
 けれどばあちゃんが常に求めたのは、嫁という立場であった、叔母でした。叔母の姿が少しでも見えなくなると、ばあちゃんは不安そうでした。いつでも叔母を心から信頼していました。
 ばあちゃんと叔母の関係は、特別なものであったように私は思います。
「その何年かに、何度かお母ちゃん(たかちゃんのお母さん)が、デイケアのことを考えたの」
「そうだったね」
 ばあちゃんにケアマネージャーさんがついたとき、たかちゃんは東京から話し合いに同席しに来ました。
 そのときのことも覚えていますが、たかちゃんはとても、人を尊重します。
 ばあちゃんが亡くなるとき病室で意識が戻らない日々に、大きいたかちゃん、大きいたかちゃんの奥さん、兄の奥さんたちが、病室に訪れる看護師さんにたくさん質問をしました。皆、何かしらの医療や介護に近い専門職です。
 ばあちゃんに繋がっている管がなんなのか、酸素は充分なのか、たくさんのことを尋ねました。
 私はまるで知識がないのでそれを黙って聞いていましたが、もしかしたらばあちゃんの病室は、病院にとって厄介な部屋だったかもしれません。
 私はでも、このとき必死になってくれたいとこやいとこの奥さんたちにも心から感謝しています。みんな本当に、少しでもばあちゃんがいてくれるように必死で、このときのことはそれこそそれぞれが誰も間違っていなかったと私は思っています。
 ただ、たかちゃんは東京から日帰りでばあちゃんに会いにきたときも、ばあちゃんにだけ声を掛けて帰りました。
 ばあちゃんのケアマネージャーさんと話したときも、決して、同業の方の気持ちに障るようなことは言わなかったと思います。
「お母ちゃんはきっと、デイケアに行ったらばあちゃんの時間がもう少し楽しく豊かになって、ばあちゃんももっと元気になるって思ったんだと思う。明日からデイケアなんだって、ばあちゃんのために新しい靴や新しい服を用意して、お母ちゃんはとても気持ちを弾ませて見えたの。私には」
 その頃私はまめにばあちゃんに会いに行っていたので、二度だったか、叔母がデイケアの準備をするのを頼もしく眺めていました。
「でもばあちゃんは、一度行くともうそれきり行きたくないと言って、結局デイケアに通わなかった。その度に、お母ちゃんが気持ちを落として見えて、それが切なかった。私がずっと不思議なのは、ばあちゃんが何故あんなにデイケアを嫌がったのかなの」
 ばあちゃんの人柄については、エッセイ「女に生まれてみたものの。」などで書かせていただいています。
「Kさんほどではないけれど、ばあちゃんはとても社交的で行動的な人だった。婦人会の会長も長くやったし、観音講というのがあってね」
 このことも「女に」で詳しく書いていますが、会津には観音講という習慣があります。
 会津は封建的な土地柄で、葬式には女は出ず台所をして、初七日に歌詠みという形で初めて女だけでお弔いをします。その歌詠みを、会津三十三観音を巡りながら女性だけでするという習慣が長くありました。
 これは、家から出られない旅行などとてもできない女性を婦人会が観音講という名目で連れ出して、一年にたった一日か二日、女性だけで伸び伸びと過ごすという時間でした。ばあちゃんは一時期は五十人以上という女性をまとめて、出さないという家も説得して連れ出して、何十年もそのまとめ役をしていました。
「今年で最後なんだ」
 まだばあちゃんが立ち歩けた八十代のときに、私はその五十人以上の女性が晴れ晴れとした顔で写っている白黒の写真を大切そうに風呂敷に包むのを見ていました。みんな体がきかなくなり、亡くなった人もいて、この写真に写っている人はもう何人もいない。今年が最後の観音講だとそう言って、旅立つばあちゃんを見送りました。
「そういう、とても社交的で活動的な人だった。気持ちが外に向いている人だった。なのにどうして、あんなに頑なにデイケアを拒んだんだろうって、それがずっと不思議だった」
 私はこのことは誰とも話したことはないのですが、もしかしたらたかちゃんにはそれが何故なのかわかるのかもしれないと思って、訊きました。
「ばあちゃんの気持ちは、ばあちゃんにしかわからないよ」
 当たり前のことを、たかちゃんは言いました。
「そうか。そうだね。もう、聞くこともできないね」
 でもばあちゃんは尋ねられたいことではなかったのかもしれないとも、たかちゃんの言葉を聞いて初めて気づきました。
「生きたように、人は老いるわけではないね」
 これから先自分にもどんな時間が待っているかは、想像がつかないことも、知りました。
「そうだね」
 穏やかに笑うたかちゃんに、会津のお菓子を渡して帰りました。
 明日、ばあちゃんに花を持って、たかちゃんのことを話しに行こうと思います。
 ばあちゃんに花を上げに行くと、まだ幼い大きいたかちゃんの下の娘達がたまに、
「のんちゃんはどうしてお花を持ってくるの?」
 と、尋ねます。
 その度に叔母が、
「ばあちゃんに持って来てくれたんだよ。みんなのばあちゃんじゃなくて、のんちゃんのばあちゃんだよ。のんちゃんはばあちゃんが大好きだったんだよ」
 そう、自分の孫たちに丁寧に教えます。
「のんちゃんは、のんちゃんのおばあちゃんが大好きだったの?」
「そうだよ。たくさんかわいがってもらったんだよ」
 この子たちはもう、ばあちゃんのことを知らないのだなあと思いながら、私もいつもばあちゃんの話はしません。
 明日も、聞かれてもばあちゃんの話はしないと思います。
 お仏壇に花を上げて、ばあちゃんとだけ話します。
 ばあちゃんの一番下の孫の、ばあちゃんがとてもかわいがった小さかったたかちゃんが、もう少しも小さくないよと、ばあちゃんに伝えます。
 最期の病室に、東京から車を走らせてばあちゃんに会いに来たたかちゃんは決して泣かずに、
「ばあちゃんはすごくがんばってる。すごくがんばってるね」
 ばあちゃんの頬を丁寧に何度も何度も撫でながらそう笑ったのを、思い出しました。
 ばあちゃんはたかちゃんにいっぱい笑顔で褒められて、きっとすごく嬉しかっただろうと、昨日見たようにその日のことを思い出しました。

 最後に、蛇足ですが私がこの日記を書いたのは、ただたかちゃんのことを語りたかったからというのもあります。
 もう一つ、理由があって、私はたかちゃんの勤めているようなホームの存在を全く知らなかったので、もし同じように知らない方がいらっしゃったらお伝えできたらと思いました。
 様々、家庭家庭で、考えや経済的な問題や、それぞれの愛情があると思います。
 けれどもし認知症のご家族とともに生活をしていて、日々辛いことが増えて、これからどんどん辛くなるのか、いつまで続くのかと気持ちが追い詰められている方がいらっしゃったら、可能性の一つとしてこういうホームもあるとお伝えできたらと思いました。

 長い日記におつきあいくださって、ありがとうございました。


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